旅行が重要な娯楽なのは現代の私たちだけではなく、江戸時代の人々も同様でした。

しかし交通が発達しておらず、社会システムも大きく異なる江戸時代の旅行は、現代とはかなり事情が異なっています。

果たして江戸時代の人々はどのような旅行をしていたのでしょうか? またどれくらい費用がかかったのでしょうか?

本記事では江戸時代の人々がどのように旅行をしていたのかについて紹介していきます。

なおこの研究は奈良史学 Vol.27号, (2010. 01) ,p.32- 55に詳細が書かれています。

目次

  • 旅行の準備
  • 伊勢参拝のついでに諸国漫遊する江戸時代の旅人
  • 何に費用がかかったの?

旅行の準備

歌川広重の「伊勢参宮・宮川の渡し」、当時の人々にとって伊勢参拝はまさに一生に一度のイベントであった。 / credit:wikipedia

江戸時代に旅行する場合は手形が必要であり、庶民が自由に旅行をすることは非常に困難でした。

手形とは現在でいうパスポートみたいなものであり、関所を通過するときに必要だったのです。

もちろん手形を発行するのは面倒であり、そう簡単に手に入る代物ではありませんでした。

しかし寺社仏閣への参拝を目的とする場合は非常に簡単に手形が手に入ったので、庶民の旅行は参拝旅行が中心だったのです。

当時の人々にとっての旅行とはお遍路をはじめとした信仰目的の要素が強いものとなったのです。

それ故旅の一部に娯楽的な要素が入り込むことはあっても、全体としては厳粛な雰囲気で旅が行われることとなり、今の私たちの想像する旅行とは全く異なっていたのです。

それに対して伊勢参拝は信仰目的もあったものの、娯楽的な要素も強いものであり、今の私たちが想像する旅行に一番近いものでした。

そのため当時は伊勢参拝が非常に人気であり、村や組合では伊勢講(伊勢神宮参拝のために結成した信仰集団)というものが作られていました。

伊勢講では旅費を集団で積み立てており、参拝する人は伊勢講の仲間内で平等にくじで決め、くじに当たった人が代表として参拝しました。

ちなみに代表者は伊勢神宮にて他の講の参加者の分のお祓いも受けるうえ、他の仲間たちに伊勢神宮の神宮大麻というお札をお土産として持って帰りましたので、くじに落ちた人がそこまで不平等感を持つことは無かったです。

このように伊勢参拝は現代のように旅行に行くことができない当時の人にとってはまさに一生に一度のイベントであり、それだけ力を入れていたのです。

そのほかにも家族や勤務先に黙って伊勢参拝に出かける「抜け参り」というものもあり、様々な形の伊勢参拝が見られました。

なお江戸時代の伊勢参拝をモチーフにした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の小説「東海道中膝栗毛」では主人公の弥次郎兵衛は「妻との死別」喜多八「勤務先からの解雇」という不運が続き、その厄落としとして伊勢参拝の旅に出かけます。

当然二人とも伊勢講には入っておらず、それゆえ二人は旅に出るために持っている財産を全て売却し、何とか資金を捻出しました。

弥次郎兵衛と喜多八の伊勢参拝は、現代で言うと、「仕事を辞めて世界一周旅行に出かける」と同じような感覚なのかもしれません。

伊勢参拝のついでに諸国漫遊する江戸時代の旅人

京都市の三条大橋の西のたもとにある弥次郎兵衛と喜多八の像、彼らは同時代の旅人の多くがそうであったように、伊勢神宮に参拝後江戸には戻らず、西へ足を延ばした。 / credit:ニッポン旅マガジン

それでは江戸時代の伊勢参拝はどのような行程で行われていたのでしょうか?

江戸近辺の農村に住んでいるある旅人の伊勢参拝の行程を見ると、東海道を下って伊勢神宮(現在の三重県伊勢市)に向かっています。

しかし一直線に伊勢神宮に向かっていたのではなく豊川稲荷(現在の愛知県豊川市)や熱田神宮(現在の愛知県名古屋市)などに参拝しており、それなりに寄り道をしています。

旅行のメインである伊勢では4日ほど使っており、外宮・内宮をゆっくり参拝するだけでなく、二見や鳥羽といった近隣の観光地にも足を延ばしています。

その後は近畿地方に進み、奈良や大坂の見物をしました。

大坂からは船に乗って四国へ向かい、金刀比羅宮(現在の香川県琴平町)や道後温泉(現在の愛媛県松山市)といった現代でもおなじみの観光地を訪問しています。

その後瀬戸内海を渡って本州に渡り、厳島神社(現在の広島県廿日市市)や錦帯橋(現在の山口県岩国市)を訪問しました。

再び近畿地方に戻り、大坂や京の見物をした後、今度は中山道を進み、善光寺(現在の長野県長野市)に参拝しています。

そして中山道を上って帰宅するのです。

江戸在住の庶民の典型的な伊勢参拝の旅程、伊勢神宮だけでなく、京・大坂や厳島神社、善光寺とまさに盛りだくさんであった / credit:Google社「Google マップ」

この行程は2カ月近くかかっており、まさに一世一代の大旅行となっています。

なお江戸時代の旅人は平均して一日30キロメートルから40キロメートル歩いていましたが、山道を歩いたり自分の体調がよくなかったりした場合はもっと少ない距離しか進みませんでした。

このように江戸時代は自由に旅行に行くことができなかったということもあり、伊勢参拝のついでに諸国漫遊をするということが通例でした。

実際に先述した「東海道中膝栗毛」でも主人公たちは江戸→伊勢神宮→京・大阪→金刀比羅宮→厳島神社→京・大阪→善光寺→江戸と旅行しており、先述した旅程とほぼ同じです。

何に費用がかかったの?

歌川広重の「木曽海道六十九次」に描かれた木賃宿、現在の感覚で言えば漫画喫茶宿泊に近い / credit:wikipedia

それでは伊勢参拝では、どれくらい費用がかかったのでしょうか。

まず現代の旅行でも大きな割合を占める交通費ですが、陸路はほぼ全て徒歩で行っているということもあり、船代を除き費用はほぼかかりません。

それでも体調が悪かったり、険しい道を進んだり、はたまた行程に遅れが見られるときなどは駕籠や馬に乗るなどしており、全く交通費がなかったわけではありません。

先述した一行の場合も一部区間で駕籠や馬を使っていますが、費用は決して安くなく、何度も使えるものではありませんでした。

また先述のように通行手形は伊勢参拝の場合は無条件で手に入れることができたので、そちらに費用がかかることもありませんでした。

一番多くの費用がかかったのは宿泊代です。

当時の宿は夕食と朝食がついている旅籠と素泊まりの木賃宿に分かれており、双方で大きく値段は異なりました。

旅籠の宿泊料金は130文~200文であり、木賃宿の宿泊料金は60文~80文です。

1文は経済事情の相違により単純に比較するのは難しいですが、現代の価値で30円ほどと言われています。

特に京や大坂といった大都市の場合は双方ともに費用が高く、出費がかさみました。

また昼食は旅籠で持参の弁当箱におにぎりなどを詰めて食べていたり、街道沿いにある茶屋で食事を取ったりしていました

木賃宿に宿泊する場合は、米を購入して自分で調理していたのです。

さらに、特定の場所での案内者に対する支払いも取り上げられており、奈良観光で88文、大坂観光で164文、京都観光で200文それぞれ案内人に支払いました。

このように多額の費用がかかった伊勢参拝ですが、当時はクレジットカードやATMなどといった便利なものはなく、それ故、旅行に必要な財産を全て持ち歩く必要がありました。

そのため当時の旅人は費用を金貨や銀貨といった高額通貨で持ち歩き、途中の宿場町で銭貨に両替して使っていたようです

なお江戸時代の東海道は武士が多く通るということで警備が行き届いていたことから比較的治安が良く、「旅行するのも命がけ」という状態ではなかったと言われます。

しかしそれでも夜間になると治安は悪くなりますので、基本的に旅人は日の出から日没までの間に移動を済ませ、宿に入るのが普通でした。

ちなみに1760年頃の相場では金1両に対して銭4000文であり、大体12万円程度です。

先述した旅行の旅費は5両程度かかったとのことですので、現代の価値に直せば60万円程度かかったことになります。

60万もの費用が必要で全て持ち歩かなければならなず、二カ月近くかけた大旅行となると、やはり現代でも現役引退後でなければ実行は難しいでしょう。

当時の人達にとって、人生で一度は経験したい旅行であり、重要な娯楽の1つだったとはいえ、伊勢参拝がなかなか出発の決心をするのが難しいものだったことはこの事実からも伺えます。

全ての画像を見る

参考文献

近世的旅観の形成: 伊勢参りの旅 –奈良大学リポジトリ (nara-u.ac.jp)
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN10086451-20100100-1003

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 一生に一度の諸国漫遊!江戸時代の人々はどんな旅行をしていたの?