「私は死、世界の破壊者(I am become Death, the Destroyer of Worlds.)」

この不気味な言葉を残したロバート・オッペンハイマーは現在多くの人々から「原子爆弾を作った人」と認識されています。

しかし、なぜ「原爆の父」オッペンハイマーがマンハッタン計画のリーダーに抜擢されたのか、またどれほど優秀な物理学者だったのかは、あまり知られてはいません。

そこで今回は、オッペンハイマーの物理学者としての業績に焦点を当てたいと思います。

目次

  • 「原爆の父」オッペンハイマーはどれほど優秀な物理学者だったのか?
  • オッペンハイマーのブラックホールに関わるノーベル賞級の業績
  • 「私は死、世界の破壊者」の本当の意味

「原爆の父」オッペンハイマーはどれほど優秀な物理学者だったのか?

Credit:Canva . ナゾロジー編集部

オッペンハイマーは物理学者として、どれほど優秀だったのか?

答えを出すには最低限、同時期にどんな物理学者がいたかを知らねばなりません。

オッペンハイマーは1904年生まれで、1967年に62歳で世を去ります。

この間に存在した最も有名な物理学者と言えば「アインシュタイン」でしょう。

時空の歪みや重力の神秘を解き明かしたアインシュタインの名声は、ニュートンに並ぶと言えます。

波動方程式を考案したシュレーディンガーも同時期に活躍した偉大な物理学者です。

他にも量子力学の不確定性原理を導いたハイゼンベルグ、電子や陽子が空間的に重なれないことや、電子のスピンを発見したパウリ、ディラック方程式やディラックの海を提案したディラックなど、圧倒的な業績を持つ偉人が並びます。

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物理学者の名前に詳しくなくとも、不確定性原理やパウリの排他律、ディラックの海といった理論名なら知っている人も多いでしょう。

20世紀初頭は量子理論に革命が起きていた時期であり、新たな理論が新たな偉人と一緒に次々に登場しました。

残念なことに、オッペンハイマーは彼らと同クラスの物理学者ではありませんでした。

しかしその主な原因は、オッペンハイマーの能力とは別にありました。

オッペンハイマーが生まれた時期は、1904年です。

一方、アインシュタインは1879年、シュレーディンガーは1887年、ハイゼンベルグは1901年、パウリは1900年、ディラックは1902年となり、全員オッペンハイマーよりも早く生まれています。

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「生まれた年が少し遅いだけで業績に差が出るのか?」と疑問に思うかもしれません。

しかし新たな量子理論が次々に現れる革命期には、ほんの数年、生れ年が遅うだけで大きな影響が出ます。

実際、オッペンハイマーが博士号を取得し物理学者として独り立ちした時期は、多くの量子理論が出そろっており「応用の時代」となっていました。

(※米国の科学哲学者トーマス・サミュエル・クーンの言葉を借りれば「掃討作戦」の時代となるでしょう)

しかしそんな応用の時代でも、オッペンハイマーは優れた業績を残しています。

その1つが、量子力学の教科書にはかならず乗っている「ボルン・オッペンハイマー近似」です。

(※もう1つのブラックホールに関わるノーベル賞級の業績については次ページを参照)

なんだか難しそうな名前ですが、極論するなら「円周率に3.14ではなく3を使う方法」となります。

というのもボルン・オッペンハイマー近似は計算の負担を減らす、非常に便利な方法だからです。

原子や分子の挙動をシュレーディンガーの方程式で正確に表すには、原子核と電子の両方の運動について考えなければなりません。

現実に存在する原子は、原子核も電子も常に動いているからです。

ですがボルン・オッペンハイマー近似では電子に比べて原子核は非常に重く動きも遅いため、シュレーディンガー方程式などで電子の動きを考えなければならないときには「とりあえず原子核は停止していると考えても問題ない」とされます。

ボルン・オッペンハイマー近似で導き出される数値は厳密な意味で真実ではありませんが、計算の手間というデメリットを、計算簡略化のメリットが上回るのです。

アインシュタインの相対性理論に比べれば、若干、見劣りするかもしれません。

しかし重要な発見なのは確かです。

ボルン・オッペンハイマー近似を誰かが考え付かない限り、人類はシュレーディンガー方程式をまともに解けなかった可能性があるからです。

しかしオッペンハイマーの業績はこれ1つだけではありません。

実は、オッペンハイマーはブラックホール理論における、先進的な理論をうみだしていたのです。

そしてこちらは便利ツールではなく、正真正銘ノーベル賞級となっています。

オッペンハイマーのブラックホールに関わるノーベル賞級の業績

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オッペンハイマーにはノーベル賞受賞歴はありません。

ノーベル賞は生きている人間にだけ与えられる賞なので、いくら優れた業績を残しても、死後に評価された場合は対象外となってしまうからです。

オッペンハイマーは1939年、ブラックホールがどんな条件で形成されるかという、極めて先進的な理論を発表しました。

ブラックホールは簡単に言えば、重さに耐えきれず時空に開いた穴が開いた状態です。

通常、質量を持つ物質が大量に存在すると、それらは重力によって互いに引き合い、太陽のような巨大な星が誕生します。

すると星の内部は重力によって大きな圧力がかかることになります。

太陽などでは、星の内部にかかる圧力を核融合による熱が支えているため、星の大きさは安定に保たれています。

しかし核融合の燃料が尽きてしまうと星を支える力が失われ、全てが星の中心点に向かって落下をはじめます。

すると星の内部は異常な高温高圧にさらされ、原子も原子核もバラバラに砕けてしまい、星の中心部には原子核の部品の1つである中性子のみが残されます。

2つの野球ボールを頑張ってくっつけようとしても、空間的な位置が重なってくれないのと同じように、中性子に圧力を加えても「普通は」反発されて重なりません。

そのため中性子の核ができると、かなりの圧に対しても、星を支えられるようになります。

たとえば超新星爆発も、中性子の核の耐久性に依存しています。

核融合の燃料が尽きると星の外部が中心部の核に向けて一斉に落下していきますが、硬い中性子の核にバウンドすると、逆に外側に向けて衝撃波として跳ね返りを起こします。

この外向きの跳ね返りこそが、超新星爆発の正体です。

太陽に同サイズの巨大水風船をぶつけたら火が消えるのか?

では中性子の硬い核さえあれば、どんなに巨大な星も支え切れるのでしょうか?

この疑問に対しオッペンハイマーは、中性子が耐えられる圧力は無限ではなく、一定の限界があることに気付きました。

そして限界を超えた圧力が加わると「重力崩壊」という現象が起こって、全ての物質が無限に1点に向けて落下しはじめます。

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この全てが1点に落下する存在こそ、現在私たちがブラックホールと認識している天体になります。

つまりオッペンハイマーはブラックホールの存在に最初に気付いた1人だったのです。

しかし論文が発表された1939年の段階では、ブラックホールの存在自体に多くの人が懐疑的でした。

そのためオッペンハイマーの理論は、1960年代に再びブラックホールの問題が議論されるようになるまで、忘れられたままでした。

さらにブラックホールにかんする実験的な証拠がみつかりるには1990年代を待たなければなりませんでした。

もしオッペンハイマーが62歳ではなく90歳まで生きていたならば、間違いなくノーベル賞を受賞していたでしょう。

もしオッペンハイマーがブラックホール理論でノーベル賞を受賞していたら「私は死、世界の破壊者」の代りに、どんな言葉を残してくれていたのでしょう。

歴史のIFには答えはありません。

しかしオッペンハイマーが実際に残した言葉にどんな意味が込められていたかはわかっています。

「私は死、世界の破壊者」の本当の意味

Credit:Canva . ナゾロジー編集部

「私は死、世界の破壊者(I am become Death, the Destroyer of Worlds.)」

オッペンハイマーは「原爆の父」としてこの言葉を残しました。

残念なことに多くの人はこの言葉を「悪意ある言葉」として認識しています。

しかし実際は違います。

それどころか、この言葉はオッペンハイマーのオリジナルですらありません。

この言葉の元となったのは、ヒンドゥー教の聖典である「バガヴァッド・ギータ(神の詩)」です。

好奇心が強かったオッペンハイマーは本職の物理学以外にも、たくさんの文学や言語について学び、ヒンドゥー教の哲学にも強い興味を持っていました。

聖典の内容は主人公であるアルジュナ王子と、ヴィシュヌ神の化身である従者クリシュナの会話を中心に描かれたもので、700行にわたる文章は極めて深い知恵に飛んだ内容になっています。

般若心経にたとえるならば、クリシュナが悟りを開いたブッダで、アルジュナ王子が悩める弟子のポジションとなっています。

この物語の佳境において、アルジュナ王子は友人や親戚を含む敵軍と戦わなければならなくなり、苦悩します。

そのとき従者クリシュナは恐ろしい姿に変身し、アルジュナ王子に告げた言葉の1つが

「私は諸々の世界の破壊者。私は全ての人々を滅ぼすためにきた」というものでした。

誰が生き誰が死ぬかは神が決めることであり、敵軍に友人や親戚がいたとしても、結果を気にせず務めを果たすべきだ、とアルジュナ王子に伝えるためでした。

アルジュナ王子の心労を少しでも減らすための、クリシュナによるショック療法と言えるでしょう。

この言葉をオッペンハイマーは自分流に解釈して「私は死、世界の破壊者」としたのです。

そしてアルジュナ王子を支えるクリシュナの観点があれば、この言葉の真意がみえてきます。

オッペンハイマーは原爆が戦争に使われた場合、何が起こるかを誰よりも知っていました。

もしオッペンハイマーの立場に優しいアルジュナ王子がいたら、やはり原爆作成に疑問を感じたでしょう。

しかしオッペンハイマーはマンハッタン計画のリーダーとしての義務を果たさなければなりませんでした。

ただオッペンハイマーは神の化身でも王族でもなく、核兵器開発を主導したことに後悔したと吐露しています。

「私は死、世界の破壊者」

オッペンハイマーが残したこの言葉は、世界を破滅に導く魔王の即位宣言ではなく、義務と結果を割り切れない人間の呟きだったのです。

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参考文献

Born−Oppenheimer 近似と断熱近似(PDF) https://core.ac.uk/download/pdf/197295286.pdf

元論文

The maximum mass of a neutron star. https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1996A%26A...305..871B/abstract
情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 「原爆の父」オッペンハイマーはどれほど優秀な物理学者だったのか?