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スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)らはこのほど、10年以上もの間、半身不随で立つことさえできなかったオランダ人男性(40)が、脳と脊髄のコミュニケーションを回復させる新たなインプラント技術によって再び歩けるようになったと報告しました。
従来のインプラント治療は主に、脊髄神経のみを刺激して運動を誘発するものであり、そこに患者の意思は介在せず、歩行もぎこちないものとなっていました。
しかし今回は、脳にもインプラントを施すことで、患者が思念した「歩くイメージ」をAIが読み取って脊髄に送り、歩行を再現しています。
患者本人の脳活動を利用して、脚の動きの制御に成功したのは今回が初めてです。
研究の詳細は、2023年5月24日付で科学雑誌『Nature』に掲載されました。
目次
オランダ人のヘルトヤン・オスカム(Gert-Jan Oskam)氏は今から11年前、自転車事故により脊髄を損傷して以来、下半身不随となっていました。
脊髄損傷は、脳と脊髄の間で交わされる神経信号のコミュニケーションが遮断されることで、両脚に麻痺を引き起こします。
オスカム氏は事故から約5年後に、麻痺患者の歩行の回復を目指す研究チームの臨床試験に参加しました。
当初は従来と同じ脊髄インプラントを受け、そこに電気パルスを送信し、脚の筋肉を刺激して歩行を促すという治療を受けています。
しかし再現された脚の動きは不自然で、オスカム氏も「他人に動かされている感じ」が拭えなかったそうです。
そこで研究チームは今回、脊髄インプラントに加え、脚の動きを制御する脳領域に「ブレイン・マシン・インタフェース(BCI)」を移植しました。
このBCIは搭載したAIアルゴリズムを用いて、脳の活動をリアルタイムで解読するものです。
まず、脳に設置された2つの電極アレイが、筋肉の動きを指示する感覚運動野の活動を記録します。
これらの信号は、小型バックパック内の携帯型デバイス(処理装置)に送られ、そこで脚を動かすための刺激パターンに変換された後、脊髄インプラントへと送信されます。
これにより、患者本人が望むような脚の動きを可能なかぎり実現することができます。
試験では、オスカム氏に両脚の関節運動のイメージをしてもらいながらAIの学習訓練を行いました。
その結果、股関節や膝関節、足首の動きなどをそれぞれ異なる活動パターンで区別でき、脳信号とオスカム氏の意図した動きを対応させられるようになっています。
次に「体重をかける」「膝を曲げる」「脚を前に出す」といった動作を司る筋肉をターゲットにした刺激パターンを作成し、バックパック内の携帯型デバイスにプログラム。
実際の使用時には、オスカム氏の思念を脳インプラントのAIが読み取り、入力された脳信号をそれに合致する動きの刺激パターンに変換し、脊髄インプラントに送ります。
そして歩行訓練の結果、オスカム氏はゆっくりではありますが、自分の意思によって再び歩けるようになったのです。
最初は平らな道で歩行の訓練を続け、少しずつ困難な地形や坂道に挑戦し、今では階段も登れるようになっています。
チームは、この脳と脊髄のコミュニケーションを橋渡しする新技術を「デジタルブリッジ(digital bridge)」と名付けました。
さらに訓練を続けたところ、もう一つ驚くべき現象がオスカム氏に起こったのです。
なんと6カ月間のトレーニングの結果、オスカム氏は「デジタルブリッジ」の電源をオフにしても、松葉杖や歩行器があれば自力で歩けるようになったのです。
これについて、研究チームのギョーム・シャルベ(Guillaume Charvet)氏は「これは新しい神経接続が発達したことを示唆している」と指摘します。
「脳と脊髄の間を行き交う神経信号のリンクが確立されたことで、脊髄の損傷部位の神経細胞ネットワークの再編成が促進されたのでしょう。
それによって事故で失った感覚や運動能力に回復が見られたのです」
ただし、この回復の仕組みについては不明な点が多いと話します。
「問題は脳のどこが脊髄のどこと繋がったのかということですが、それはまだ分かっていません。
この2つがどのように連携しているのかを解明する必要があります」
一方でオスカム氏は、自らの意思で再び歩けるようになったことについて、こう話しています。
「2つのインプラントを移植するために、2度の侵襲的な手術を受けなければならず、ここにたどり着くまでの道のりは長いものでした。
しかし今、私は自分のしたいことをすることができます。一歩を踏み出そうと思えば、すぐに脚に刺激が入るのです。
友人とバーでビールを飲みながら立ち話もできるようになりました。
このシンプルな喜びは、私の人生における大きな変化となっています」
では、この技術が世界中の麻痺患者のもとに届くのはいつ頃になるのでしょうか?
シャルべ氏は「一般に広く提供できるまでには、さらに数年の研究や改善が必要です」と話しています。
デジタルブリッジを試したのはオスカム氏ただ一人であり、他の麻痺患者にも同様の効果が得られるとは断言できません。
また脊髄の損傷が重度の場合は、脳と脊髄のコミュニケーションを取り戻すことも難しくなるといいます。
それでも「デジタルブリッジは多くの麻痺患者において歩行を取り戻しうる技術になると感心している」とシャルべ氏は述べています。
チームは現在、デジタルブリッジを手や腕の麻痺患者にも応用できるかどうかを試験する準備を進めているとのことです。
参考文献
Paralysed man walks again via thought-controlled implants元論文
Walking naturally after spinal cord injury using a brain–spine interface