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量子力学が支配する小さな世界では、1つの量子が異なる2つの状態で重ね合わさったまま存在することが可能になります。
一方、野球ボールや惑星のような大きな物体はアイザック・ニュートンに起源を発する古典力学の法則に従って動きます。
私たちはこの古典力学を主に小学校から高校にかけて学ぶことになっていますが、古典力学は基本的に人間の直感に反しないものとなっています。
たとえば投げたボールがどのように飛ぶかは、ボールが持つ運動エネルギーとボールの場所が判れば1つの線として予測することが可能ですが、この結果を納得するのにそう苦労はいりません。
しかしヒトによって大学以降に学び始めることになる量子力学では、1つの粒子が2つの場所に同時に存在したり、1つの粒子が2つの正反対の状態を同時に持っていたり、さらに「観察によってはじめて状態が確定する」など、人間の直感から逸脱した性質を持つものとなっています。
このような量子力学に納得がいかないと考えているのは一般人に限りません。
相対性理論を発表したアインシュタインも大きな不満を抱いており、「量子的重ね合わせ」や「量子もつれ」に対して「神はサイコロを振らない」や「不気味な遠隔作用」などの名言を残しています。
量子力学の基礎となる波動方程式を考案したシュレーディンガーも実はアインシュタインと同じ側にあり、かの有名な「シュレーディンガーの猫」も量子力学に対する不満を表すために考案されました。
シュレーディンガーの猫では
①1時間以内に50%の確率で崩壊して放射線を発する原子
②放射線を感知して毒を噴出する装置
③猫
④外部からの観測を防ぐ箱
の4要素から成り立っています。
量子力学では1時間後には原子が崩壊している確率と崩壊していない確率が半々の重ね合わせの状態にあり、観察されるまで宇宙には「どちらの状態にあるか」にかんする情報が存在しないことになっています。
しかしそうなると猫というマクロ世界の住人もまた、死んでいる状態と死んでいない状態の両方が、観察するまで重ね合わせになって存在していることになり、シュレーディンガーはこの思考実験を通して(生死が半々なんて)「そんなおかしいことは起こり得ない」と結論しています。
アインシュタインもシュレーディンガーも観察が「されようがされまいが」物体の状態は決まっていると信じており「観察という行為によってはじめてどちらの状態にあるかの情報が宇宙に発生する」という量子力学の理論(コペンハーゲン解釈)を受け入れられなかったのです。
2人にとって物体の状態は観察前に既に決まっていて、観測はそれを確認するだけの行為であり、物理現象に介入する要素だとは思っていなかったからです。
しかし間違っていたのは2人のほうでした。
2022年にノーベル賞を受賞した「量子もつれれ」にかんする研究はその事実を如実に示しています。
量子もつれにある「2つの物体の状態」にかんする情報は「観測が行われる前までは宇宙に存在」せず、観測によってはじめて発生することが示されたからです。
観測は物理現象の根本に介入して物体の状態を確定させるだけでなく、物体がどんな状態であるかの情報を宇宙に生成する方法でもあったのです。
また近年の研究では量子力学的なあいまいさが原子や分子などミクロ世界の住人だけでなく、巨大な分子複合体でも起こることが示されてきました。
たとえば2019年に行われた二重スリット実験をもとにした実験では、2000個の原子から構成される「1個の巨大な有機化合物を2カ所に同時に存在させる」重ね合わせに成功しています。
また1個の原子が同時に存在する範囲を数メートル離れた2カ所に同時に存在させるという長距離の重ね合わせにも成功しています。
このように、現実世界ではシュレーディンガーが「そんなおかしいことは起こり得ない」と述べていたマクロサイズの重ね合わせに着実に近づいていたのです。
ですが2000個以上の原子を二重スリットをもとに重ね合わせにする方法は限界にきていました。
重ね合わせに状態にする物体が大きく重くなっていくと、存在確率のばらけ方が狭い範囲に集まってしまうため、二重スリットの間隔を短くする必要があったからです。
ですが二重スリットを狭くする加工技術は限界が近くなっており、より大きな物体を重ね合わせにすることは困難になっていました。
しかし状態の重ね合わせを起こす方法は何も二重スリットに頼らなくてもかかいません。
それこそシュレーディンガーの猫のように、重ね合わせを起こす量子に従って状態が変化する「毒放出装置」や「猫」のような存在を用意できれば、より大きな物体に重ね合わせの結果を連動させることが可能になります。
といっても本当にシュレーディンガーの猫を作って、毒放出装置や猫を用意するわけにはいきません。
オリジナルのシュレーディンガーの猫の実験では、猫が生きているか死んでいるかが決定した後に観察が行われたのか、観察が行われることではじめて猫の生死が確定したのかを知るすべがないからです。
そこで今回、スイス連邦工科大学の研究者たちは、シュレーディンガーの猫を改良した、実験を行うことにしました。
シュレーディンガーの猫の思考実験では、1時間以内に原子の崩壊が起こって放射線が発生た場合、放射線を検出した装置が毒を発生し、最後に猫が死にます。
新たに行われた実験では起点として、崩壊して放射線を発する原子の代りに量子コンピューターの量子ビット、毒発生装置の代りに圧電素子、猫の代りに振動するサファイア結晶が用意されました。
この量子ビットは0か1かの2つの状態が重ね合わさで存在しており、圧電素子を含む回路に組み込まれています。
圧電素子は圧力によって発電したり電圧を加えると発電する機能をもった素子です。
研究では、この圧電素子が1マイクログラムのサファイア結晶に接続されました。
つまり量子ビット➔圧電素子➔サファイア結晶の流れとなります。
その様子を図で示したのが以下のものになります。
この回路では、サファイア結晶は圧電素子の働きかけを受けると振動するように作られており、圧電素子への働きかけを起こす量子ビットの性質によってオンとオフの両方の状態が重ね合わさっています。
これにより最初の量子ビットのオンとオフの重ね合わせ状態がサファイア結晶の振動と静止の2つの運動状態の重ね合わせに連動することになります。
またこうすることで回路全体の挙動を量子力学的なものに統一することが実現し、オリジナルのシュレーディンガーの猫では不可能だった「観測するまで状態が決定できない」という環境を整えることが可能になりました。
(※観察前に量子ビットの状態が決定することはあり得ないため、観察前にサファイア結晶の振動状態が決まっていた可能性を潰せました。また量子ビットを使って結晶の振動状態を検出することも可能でした)
なお実際の実験ではサファイア結晶の振動がどのように減衰していくかが調べられ、結晶の振動パターンが量子ビットの重ね合わせに依存した量子力学で予想されるものか、それとも古典力学で予測されるものかが検証されました。
結果、結晶の振動パターンは古典力学で説明できず、量子力学的な特性を持っていることが判明します。
この結果は、1マイクログラムのサファイア結晶というギリギリ肉眼で観察できるマクロ世界の物体にも、量子力学的な状態の重ね合わせが発生し得ることを示します。
以前の二重スリット実験をつかった状態の重ね合わせでは重ね合わせを起こせるサイズが2000原子ほどでしたが、今回の研究で量子状態に陥った1マイクログラムのサファイア結晶には1京個(10の16乗個)の原子が含まれています。
また重要なこととして、実験装置を改良することでさらに大量の原子を含む物体を量子的重ね合わせに移行できる点があげられます。
目的は、量子効果が起こるサイズに限界があるかどうかを調べることです。
既存のシュレーディンガーの波動方程式をもとにすると、量子効果が起こるサイズには基本的に限界がなく、理論的には1キロの金塊が2つの異なる場所に同時に存在することもあり得ます。
ですが現実問題として、そんな奇妙な事実が観測されたことはありません。
つまり理論と現実の間に壁があるわけです。
そのため研究者たちは純粋なシュレーディンガーの波動方程式を現実の世界に適応させるには、大きいほど重ね合わせが起こりにくくなる事実を何らかの形で方程式に追加の項として組み込む必要があると述べています。
現在の理論では、サイズが大きくなるにつれて重ね合わせが起こりにくくなることは、将来的に、量子力学の範囲に組み込むことが可能だと考えられています。
もしそのような項が発見されれば、重ね合わせが起こる上限の理論値も得られる可能性があります。
それに有名なシュレーディンガーの方程式を修正する必要があるかを調べることは非常に興味深いことです。
(※既存の方程式に新たな項を加えて現実を反映するものに改造することはアインシュタインなども行っています。その有名な例として宇宙項があげられるでしょう。宇宙項の導入により宇宙が指数関数的に膨張しているという結果が得られます)
もしかしたらそう遠くない未来、ミクロの世界を記述する量子力学とマクロの世界を記述する古典力学の間の中間質量領域での量子の挙動を示す、新たな方程式が完成しているかもしれません。
参考文献
Challenging quantum mechanics with a crystal https://www.phys.ethz.ch/news-and-events/d-phys-news/2023/03/die-quantenmechanik-mit-einem-kristall-testen.html元論文
Macroscopic Quantum Test with Bulk Acoustic Wave Resonators https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.130.133604