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ところがヴェッチェ氏の意に反し、フィレンツェ国立公文書館での古文書の調査中に、セル・ピエロの手による思いも寄らない未公開の公証人証書が発見されたのです。
そこには、カテリーナがコーカサス地方(黒海とカスピ海に挟まれた地域)から連れ出され、奴隷としてイタリア各地を転々とした後フィレンツェにたどり着き、若き公証人セル・ピエロと出会ったことが記されていました。
ヴェッチェ氏は「その文書を見たとき、私は自分の目を疑いました。カテリーナが外国から連れられてきた奴隷だったとする説を信用していなかったのですから」と説明。
「そこで文書に登場するカテリーナがレオナルドの母親でないことを証明するために数カ月を費やしましたが、結局すべての事実がその方向に進み、私は降参せざるを得ませんでした」と話しています。
この証書は「カテリーナを奴隷から解放する」という内容がメインで、公証人セル・ピエロの署名が入っており、日付は1452年11月2日(レオナルドが生まれて半年後)となっています。
また、カテリーナはコーカサス地方にいたチェルケス人(※)の娘で、10代前半におそらくタタール人に誘拐され、奴隷としてヴェネチア人に売られた後、15歳頃にフィレンツェにいたセル・ピエロの元に送られたことが記されていました。
フィレンツェに着いたのは1442年のことです。となると、レオナルドを産んだときは25歳頃と考えられます。
(※ チェルケス人とは、黒海の北東沿岸部にあったチェルケス地方に住んでいた人々で、のちにロシア人によって何百回と略奪行為に遭い、少なくとも60万人が虐殺や飢餓で落命し、何十万人も故郷を追われている。
1864年までに人口の75%が失われ、チェルケス人は近代最初の「祖国を失った民族」となった)
そしてセル・ピエロは奴隷として働くカテリーナに手を出し、レオナルドが誕生したと見られます。
奴隷は主人の私有財産でしたが、当時の社会では妊娠させると厳しい罰則が科せられました。
カテリーナに関する文書を読んでみると、かなりミスが目立ち書き手が狼狽していた様子が伺えるという。
これについて、ヴェッチェ氏は「(カテリーナの件で)罰を受けないかセル・ピエロがかなり緊張しながら書いていたことの表れでしょう」と指摘します。
本研究の成果はまだ学術論文として正式に発表されておらず、査読を受けている最中であるという。
またヴェッチェ氏は現在、見つかった文書をもとにカテリーナの生涯を描いた歴史小説(仮題:Il Sorriso di Caterina=「カテリーナの笑顔」)を執筆しているとのことです。
参考文献
Da Vinci’s mother was an enslaved teenager trafficked to Italy, new documents suggest https://www.livescience.com/da-vincis-mother-was-an-enslaved-teenager-trafficked-to-italy-new-documents-suggest New theory re-ignites debate about identity of Leonardo da Vinci’s mother https://arstechnica.com/science/2023/03/new-theory-re-ignites-debate-about-identity-of-leonardo-da-vincis-mother/