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まずそもそもトンネル効果とは何なのでしょうか?
今回は最初に、2つの障壁の例を用いてトンネル効果を解説します。
化学反応を起こして新しい分子結合を生成するには、熱や圧力などで材料となる原子たちに十分な化学エネルギーを与えない限り、化学反応は起こらないとされています。
触媒などの存在は必要な化学エネルギーの量を抑えてくれる効果がありますが、それでも最低限度のエネルギーの供給は必要となっています。
また2本の隣接する電線が絶縁体によって隔てられている場合、一方の電線を通る電子が向かい側の電線に流れ込むには、何らかの方法で電子が絶縁体を突破することが必要になってきます。
このような化学的な壁や物理的な壁は一種の「障壁」として働いており、原子や電子などの自由な反応や通行を阻害しています。
しかし量子力学の世界では、原子や電子などのエネルギーや位置が不確定で確率的なものとされています。
エネルギーが確率的ということは、「極まれにとんでもない高いエネルギーを持つ原子」が出現することを示します。
現実世界にたとえるならば、大勢の人間が南から北に向かって万里の長城(障壁)に突撃する様子と言えるでしょう。
普通の人間の場合、障壁を突破できず、南側に留まります。
しかし人間社会にとんでもないジャンプ力がある人間が確率的に生まれてくる場合、障壁を飛び越えることが可能になります。
また位置が確率的ということは「電線の外など存在するハズのない位置」にも電子が出現するということを意味します。
電子や光子などの粒子の存在確率は雲のように分布していることが知られており、障壁の近くに接近すると、存在確率の雲が障壁の向こう側に広がることがあります。
そうすると障壁がいくら強固でも、粒子は確率的に、障壁の向こうに容赦なく出現することになります。
そして、そのような確率的に出現する原子や電子たちは、化学反応に必要なエネルギー障壁や、絶縁体などの物理的な障壁を、まるでトンネルをくぐったかのようにスルーすることが可能になります。
このような現象は「トンネル効果」と呼ばれており、古典的な化学や物理では説明できない、量子世界に特有な現象であると考えられています。
(※反応に必要なエネルギーを大きくしたり、絶縁体を分厚くするなどして、障壁を増すことができれば、トンネル効果が起こる頻度を下げることが可能です。しかし確率の分布を0や1にすることは原理的に不可能であり、トンネル効果の発生そのものを阻止することはできません)
トンネル効果の影響は現実世界の私たちの生活にも影響を与えています。
たとえば初期の半導体に不良品が多かった理由は、トンネル効果を防げず半導体内部に不正な電子の流れが発生したためであることが、研究によって明らかになっています。
またかつてはトンネル効果のせいで、電気回路内部の導線が接近できる距離には下限があると考えられていました。
導線同士が5nm以上接近すると、導線内部の電子が別の導線にトンネル効果で移動してしまうからです。
(※その後、絶縁体の改良により導線同士の距離が1nmでも電子のトンネル効果が起こらないようにできることが示されました)
こう述べると、トンネル効果は人類の技術発展を阻害する厄介な効果に思えるかもしれません。
しかしトンネル効果を上手く利用することができれば、本来ならば高温でしか起こらないような化学反応を室温で起こしたり、普通なら移動できないような場所に粒子をテレポートさせたかのように、出現させることが可能になります。
実際、植物の葉緑体や動物のミトコンドリアではトンネル効果を利用して、本来ならば多大なエネルギーが必要とされる化学反応を、極めて効率的に行っていることがわかってきました。
このような量子力学的な現象を利用した生物現象を説明する分野として「量子生物学」が急速な発展をみせています。
しかしトンネル効果はどのような条件でどの程度発生するかを理論的に計算するのが難しく、発生したとしても検知するのは極めて困難でした。
そのためトンネル効果については実験的検証が遅れており、これまでは主にシミュレーションに頼った調査が行われてきました。
そこで今回、インスブルック大学の研究者たちは現状を打破するため、トンネル効果の実験的な観測実験に挑むことにしました。
トンネル効果を起こすにあたって、研究者たちが注目したのは水素でした。
水素は宇宙で最も豊富な元素であるだけでなく、水素の原子核であるプロトン(陽子)は中性子と共に、原子核の最も基礎的な構成要素になります。
また水素原子と水素分子の衝突実験は最も単純かつ基本的な反応の1つであり、衝突で何が起こっているかが量子レベルの計算で解明が進んでいます。
たとえば2018年に行われた研究では、重水素陰イオンと水素分子の間に起こるトンネル効果がシミュレートされ、両者の衝突1000億回につき1回のトンネル効果が起こることが示されました。
(※このとき、重水素陰イオンと水素分子が閉じ込められた空間では1立方センチメートルあたり1秒間に「5.2 × 10−20」回の衝突が起こるとの計算結果が得られました。)
またトンネル効果の発生では、上のような反応が起こることが知られており、水素分子のうちの1つが分離して重水素陰イオンと結合し、あとには負に帯電した水素イオンが残されます。
そこで研究では、このシミュレーション結果を再現する実験が行われることになりました。
もしシミュレーションどおりの結果が得られる場合、発生する負の水素イオンの量を測定すれば、トンネル効果が起きた回数や頻度を測定できるはずだからです。
実験ではまず、材料の1つである重水素陰イオンを極低温に冷却した状態で器具に固定し、そこに極低温に冷やした水素分子が吹きかけられました。
材料(D-とH2)が熱をもたない場合、化学反応に必要なエネルギーが大きく欠乏するため、反応が右側に進むのはトンネル効果が起きたときに大きく限られるようになります。
また材料となる重水素陰イオンと水素分子を十分に冷やすことで、2つの粒子が接近したときに、互いの近くで安定し、トンネル効果を起こすための時間を多く与えることが可能になります。
実験では15分間におよび反応が行われ、生成された水素イオン(H-)の量が測定されました。
そして計測された水素イオンの数から、トンネル効果が何度、どの程度の頻度で発生したかが調べられました。
結果はシミュレーションとほぼ同じ数値が得られ、重水素陰イオンと水素分子が閉じ込められた空間では1立方センチメートルあたり1秒間に「5× 10−20」回の衝突が起こり、両者の衝突1000億回につき、1回のトンネル効果が起こることが示されました。
この一致は、実験結果が以前のシミュレーションモデルの正確性を裏付けるものであることを示すと共に、史上初のトンネル効果による分子反応が測定されたことを示します。
今回の研究では、トンネル効果を引き起こした確率的なエネルギー分布が、何によってもたらされたかも検討されています。
研究者たちはトンネル効果に波及するエネルギー源は、零点エネルギーであると述べています。
ゼロ点エネルギーは絶対零度付近まで冷却された量子における最も低いエネルギーです。
ただ全ての粒子は波動性を持っており、いくら冷却してエネルギーを奪っても、この波としての性質から振動数や波長を完全に奪うことはできません。
そのためどんなに冷却しても完全にエネルギーが失われることはなく、最低レベルのエネルギー量「ゼロ点エネルギー」を保持し続けます。
たとえばヘリウムもエネルギーレベルによって気体、液体、固体と形状を変えていきますが、液体となったヘリウムはゼロ点エネルギーによって常に温められ続けるため、地球の大気圧下ではどんなにエネルギーを奪っても固体にはなりません。
今回の実験でも、重水素陰イオンを限界まで冷却しゼロ点エネルギーを保持している状態にされました。
そのため重水素陰イオンのエネルギーは、ゼロ点エネルギーの確率的な分布に従います。
前述のようにエネルギーが確率的である場合、化学反応を起こせるほど強いエネルギーを持った重水素陰イオンが生成されることがあります。
この発生件数がトンネル効果が起こる頻度にかかわっています。
研究者たちは今回の結果が、トンネル効果の理解において理論と測定値を結びつける基礎となり、続く研究のベンチマークとなりえると述べています。
今回の研究が第一歩となりより複雑な反応系で発生するトンネル効果の影響を調べることができるようになれば、量子力学は新たな段階に到達することになるでしょう。
参考文献
Quantum Chemistry: Molecules caught tunneling https://www.uibk.ac.at/en/newsroom/2023/quantum-chemistry-molecules-caught-tunneling/元論文
Tunnelling measured in a very slow ion–molecule reaction https://www.nature.com/articles/s41586-023-05727-z