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こうした描写にもう一度喧嘩すれば勝てるだろ、と考える人もいるでしょうが、なぜビフは再チャレンジすることなく転落してしまったのでしょうか?
中国の浙江大学(せっこうだいがく)はマウスを用いた研究で、このような急激な地位の転落の原因となる脳回路を発見しました。
グループはこの脳回路を光や薬を使って制御すると、群れの最上位マウスを本来なら負けるはずがない最下位マウスに強制敗北させて社会的地位を落としたり、逆に抑制することで元の地位に返り咲かせることできたと報告しています。
研究者たちは脳には社会的地位の予想外の喪失にあったときに反応する「失望中枢」が存在しており、その活性化が強制敗北にかかわっていると述べています。
同じような脳回路は人間にも存在しているのでしょうか?
研究内容の詳細は2023年1月23日に『Cell』にて公開されました。
目次
マウスは非常に社会的な動物であり、グループで生活する際には明確な縦社会を築きます。
しかし実験室のケージ内という限られた環境で生活しているマウスたちは野生環境よりも階層構造が極端であり、1匹の最高位のオスマウスがエサ場を一番に利用する権利や暖かい巣穴区域の一番いい場所で寝る権利、メスへの特権的な交尾権利を保持しています。
また最高位のマウスは気分で下位のマウスを追い回したり、頻繁にマウンティングを行って自らの優位性を思い知らせたり、さらには好きな場所に縄張りを主張する尿を出す権利を持つなど、やりたい放題が可能となっています。
最高位マウスの特権は優先通行権にも及んでおり、チューブのような狭い空間で2匹のオスマウスが出会った場合、下位のマウスはバックして上位のマウスに道を譲ります。
2匹のマウスの実力が拮抗している場合は「押し合い」が発生しますが、多くは短時間で優劣が決まり、流血沙汰になることはありません。
そこで今回浙江大学の研究者たちは、本来ならば負けるはずのない最上位マウスが最下位マウスに負けてしまった場合、脳内で何が起こるかを調べることにしました。
実験に当たってはまず、上の動画のように、下位マウスの後退を不可能にするようにフタをした状態で1日10回、4日間に渡りチューブでの争いを行わせました。
この状態では下位マウスはフタにお尻が当たるともう後退が不可能になり、上位マウスの攻撃に対して押し返すしか方法がなくなります。
つまり背水の陣と言うべき、下位マウスが絶対に引けない状況と上位マウスが引き下がざるを得ない状況を作ったのです。
すると最初こそ上位マウスは元気に攻撃を続けていましたが、4日目までに状況が一変。
いくら押しても下がってくれない下位マウスに対して上位マウスは、上の動画のように、負けを認めて自発的に道を譲るようになりました。
(※上位マウスは下位マウスの後部にフタがされているなど知るよしもなかったために、本来ならば負けるはずのない相手に実質的な敗北を重ねたと感じたのです)
また興味深いことに、チューブからケージ内のグループ生活に戻してみると、上位マウスは優先通行権だけでなく社会的地位も失っていることが判明。
それまで保持していた、ケージ内に設置された巣穴区域への優先アクセス権など数々の特権も失っていました。
上の動画ではかつて最高位だったマウスが、下位マウスに追い回される様子を映しており、明確な「転落」を起こしていることが示されています。
さらに転落した元上位マウスにはうつ病に似た状態が現われはじめ、大好物だったはずの砂糖水を欲しがらなくなり、助からない状況でどれだけ早く絶望するかを確かめる強制水泳テストでも早々に諦めて「絶望」するようになることが判明します。
この結果は本来負けるはずのない下位マウスに負けるという予想外の出来事が上位マウスの脳に劇的な変化を起こし、社会的地位の喪失(実力に見合わない地位への転落)につながったことを示します。
これまでの研究でも、群れで上位にいるマウスは下位に比べて慢性的な社会的敗北ストレス(CSDS)に敏感であることが知られており、勝利の経験が豊富な上位マウスにとって急激な地位喪失はより精神的な打撃が大きいと考えられます。
しかしこの段階で終わっては脳科学とは言えません。
そこで次に研究者たちは上位マウスの「脳を操作するだけ」で、同じような強制敗北を引き起こせるかを確かめることにしました。
上位マウスに強制敗北を強いるため研究者たちが着目したのは外側手綱核(LHb)と呼ばれる脳幹に近い部分に存在する領域でした。
この領域は試験に落ちたり、仕事に採用されなかったり、名前まで書いてしっかり保存していたプリンが誰かに食べられてしまったりなど、予想外のガッカリに直面した時に活性化することが知られています。
また人間を対象にしたうつ病研究でも、うつ病患者たちの多くは、この領域が異常に活性化していることが判明しており、外側手綱核(LHb)は「失望中枢」とも呼ばれています。
そこで研究者たちは光をあてられた脳細胞が活性化するようにマウスたちの遺伝子を操作し、光ファイバーをマウス脳に刺しこんで「失望中枢」を強制的に活性化させてみました。
すると興味深いことに「失望中枢」を活性化させられた上位マウスたちは、上の動画のように、下位マウスに接すると自発的に後退し、逃げるようにチューブから飛び出していくことが判明。
この結果は脳に刺した光ファイバーで「失望中枢」を活性化させだけで、最上位マウスを最下位マウスに対して強制的敗北させられることを示します。
では「失望中枢」が転落をもたらすメカニズムとはどのようなものなのでしょうか?
これまでの研究によって「失望中枢」の活性化が自信や安心感に関連する脳内物質であるセロトニンの分泌をストップさせてしまうことが知られています。
また「失望中枢」と他の脳領域と相互作用を調べたところ、「失望中枢」が活性化すると意思決定や感情制御に関与する神経回路をブロックしていることが判明。
そのため研究者たちは「失望中枢の活性化は私たちの根性を弱め(意思や感情を弱め)、私たちが自分自身に向ける期待に応えることをさらに難しくしている」と結論しました。
負けるはずのない最下位マウスに上位のマウスがあっさり敗北してしまったのは、「失望中枢」の活性化によって最上位マウスから自分自身に対する自信や期待が失われてしまっていたから、というわけです。
では逆に転落してしまった上位マウスや最下位マウスの「失望中枢」を、光や薬物で強制的に抑制した場合どうなるのでしょうか?
「失望中枢」の活性化が最上位マウスに強制敗北を起こすなら、逆に抑制したらどうなるのか?
疑問を解明すべく研究者たちはマウス脳の遺伝子に別の組み換えを行い「失望中枢」を光によって抑制できるようにしてみました。
すると最下位マウスに敗北して社会的地位が転落した元最上位マウスたちは、すぐにうつ状態から脱して社会的地位を回復することが判明。
また抗うつ薬であるケタミンを投与した場合も、わずか1時間ほどで無快感および絶望状態が改善されて努力的な行動(積極性)が増えていき、24時間以内に社会的地位を部分的に回復することがわかりました。
ところが、元から最下位だったマウスは結果が異なりました。
元から最下位だったマウスの「失望中枢」の活性は最初から低レベルに抑えられており、ケタミンを投与しても地位向上につながるような努力的な行動の増加はみられませんでした。
この結果は「失望中枢」の活性化が社会的地位の急激な喪失(転落)と強く結びついていることを示しています。
つまり「失望中枢」の抑制は「失った」社会的地位を取り戻す際には役立ちますが、元から失うものがない最下位マウスにはあまり効果がなかったのです。
なお、今回の研究は「オスのマウスだけ」であり、研究者たちは「メスマウスについては異なる社会的ルールが存在しているため、今回のような実験はオスマウスでのみ機能する」と述べています。
この「失望中枢」は人間にも存在していることが知られており、以前の研究では被験者たちの脳に電極を刺しこんで抑制パルスを送ることで、うつ状態を改善できることが示されています。
人間もマウスも社会的動物であり自らの社会的地位や上下関係に非常に敏感な動物です。
冒頭で話した映画のビフのように「一回の敗北なら再戦すればいいだろう」という問題でも、実際は常勝だった人間ほど、大きな敗北に対して絶望中枢が強く活性化し、再チャレンジする気力さえ奪ってしまう可能性があります。
私たちも一度の失職や仕事の失敗を、いつまでもクヨクヨ悩んで再チャレンジさえためらってしまうことがあります。
それは単に絶望中枢が強く働きすぎて気力を奪っているだけであり、本当は再挑戦すればあっさり挽回できる問題なのかもしれません。
今回の研究が教訓とするものはなんですか? と尋ねられた研究者は急な社会的敗北にも耐えられるように「常に勝者であることを当然だと思い込まないようにしてください」と述べたそうです。
失敗の反動はすべてが順調に進んでいるときほど大きいですが、真の勝者に重要なのことは失敗したときどう振舞うかなのかもしれません。
元論文
Neural mechanism underlying depressive-like state associated with social status loss