難病で運動能力を奪われた男性が、脳インプラントによって家族との会話に成功しました。


ドイツのテューヒンゲン大学(EKUT)で行われた2022年の研究によれば、脳に刺し込んだ複数の電極(脳インプラント)から電気活動を読み取ることで、体を全く動かせなくなった患者とのコミュニケーションに成功した、とのこと。


患者は体を動かす神経を徐々に蝕まれる筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っており、唯一の可動部位であった眼球の動きがなくなる前に、脳インプラントを受け入れることを了承していました。


研究が進めば、同様の症状によって、脳の中に閉じ込められた人々を解き放つことができるでしょう。


こうした報告は最近増えてきましたが、非常に希望に満ちた話ですね。


研究内容の詳細は2022年3月22日に『Naturer Communication』にて公開されています。




目次



  • 脳に刺した電極で「脳に閉じ込められた」人と通信を可能にする
  • 最初の3カ月は失敗の連続だった
  • 最初の言葉は「ありがとう」
  • 失われていく自発的思考

脳に刺した電極で「脳に閉じ込められた」人と通信を可能にする


脳に刺した電極で「脳に閉じ込められた」人と通信を可能にする / Credit:Ujwal Chaudhary et al . Spelling interface using intracortical signals in a completely locked-in patient enabled via auditory neurofeedback training(2022) . Nature Communications

人間には脳と体という、2つの器が存在します。


1つ目の器である脳は意識や思考の働く現場であり、精神の源として頭蓋骨内部に存在します。


2つ目の器は血液や筋肉、骨や内臓で満たされてた体そのものであり、1つめの器である脳から発せられた命令は体を通して実行されます。


そして脳と体はさまざまな種類の神経で接続されており、脳からの命令と体からの感覚が行き来しています。


国から難病として指定されている筋萎縮性側索硬化症(ALS)では、脳の命令を体に伝達する運動ニューロンに障害が発生し、機能が停止してしまうことが知られています。


そのためALSが進行した患者では、意識や感覚がハッキリしていながら外部へ一切の働きかけができなくなり、精神が脳の中に閉じ込められた状態に陥ってしまうケースが知られていました。


(※脳と体の連結部(脳幹)を物理的に損傷した場合にも「閉じ込め症候群」と呼ばれる症状が発症しますが、ALSとは発生原理が異なります)


ドイツの病院に入院していた32歳の男性(仮称:ジョン)も重度のALSを患っており、唯一の可動部位であったまぶたや瞳の動きも止まろうとしていました。


まぶたや瞳の動きはジョンにとってYES・NOといった最低限の意思表示をする唯一の手段であり、これらが失われた場合、ジョンの精神は脳の中に完全に閉じ込められ、二度と外部に意思を届けることができなくなります


64本の電極を備えたマイクロチップが脳の2カ所に設置された / Credit:wyss Center . Completely locked-in man uses brain-computer interface to communicate

そこで今回、テューヒンゲン大学の研究者たちは、ジョンに対して64本の針のような電極を搭載したマイクロチップを2つ、脳に埋め込む提案を行いました。


電極が感知した脳の電気活動を読み解く(デコードする)ことで、ジョンの意思をジョンの体を経由せずに脳から直接、知ることが可能になります。


ジョンは研究者たちの申し入れを受け入れ、ジョンの脳の2カ所に電極群が埋め込まれまれることになります。


しかしジョンにとっては、ここからが試練となりました。


最初の3カ月は失敗の連続だった


脳の歌を分析している様子 / Credit:Ujwal Chaudhary et al . Spelling interface using intracortical signals in a completely locked-in patient enabled via auditory neurofeedback training(2022) . Nature Communications

脳に埋め込まれた電極はジョンの手足を動かそうとする(実際には動かない)神経活動を読み取って、右手に該当する活動ならYES、左足に該当する活動ならNOというように対応付けするように設計されていました。


ですが観測された電気活動は一貫性がなく、3カ月にわたる試みの結果、ジョンの意思読み取れていないことが判明します。


そこで研究者たちは電極から観測される脳の電気活動の強さを、ジョンにも聞こえるような音の高低に置き換えるプログラムを開発しました。


このプログラムでは脳の活動が高いときには高音が響き、低い時には低音が鳴ります。


すると結果は上々であり、ジョンは自分の脳活動をなんとかして操作して、研究者が要求する音の高さに合わせることができるようになりました。


そこで研究者たちは観測される電気活動から感度の高いニューロンを探し出し、ジョンがより音を正確に制御できるようにシステムを調整していきました。


脳の歌を正しい音階に合わせる練習 / Credit:Ujwal Chaudhary et al . Spelling interface using intracortical signals in a completely locked-in patient enabled via auditory neurofeedback training(2022) . Nature Communications

結果、ジョンはYESならば高い音、NOならば低い音といったように、特定の意思と音の音色を連動させられるようになりました。


成功を受けて研究者たちは、システムのさらなる改良に乗り出します。


脳の活動レベルを音として表現し、脳の歌声をより複雑なコミュニケーション……言葉に変換できる可能性があったからです。


最初の言葉は「ありがとう」


脳の歌を使って文字を選ぶ / Credit:wyss Center . Completely locked-in man uses brain-computer interface to communicate

脳の歌声を言葉に変換する。


研究者たちは目的を実現させるため音の組み合わせでアルファベットの文字を指定できるようにシステムを改良しました。


するとジョンは1分間に1文字というペースながらも、文字を選択できるようになりました。


そして最初につづった単語は、研究チームのリーダーであるNiels Birbaumer氏に対しての「ありがとう」でした。


続いてジョンは「頭のマッサージをしてほしい」「ロックバンド(ツール)のアルバムを聴きたい」などの要望を伝えることができました。


お父さんの声が聞こえるかもしれない / Credit:wyss Center . Completely locked-in man uses brain-computer interface to communicate

251日目には、ジョンは息子に対して「I love my cool son.(息子を愛している)」と伝え、「一緒にディズニーの映画が見たい」と頼みました。


462日目には「新しいベッドが欲しい」「みんなとバーベキューに行きたい」などの気持ちを述べました。


またジョンの妹がお見舞いに来た時には「Thank you for everything, sister(妹よ、いつもありがとう)」と述べています。


しかし残念なことに、ジョンが言葉を綴れる時間は長くはありませんでした。


失われていく自発的思考


倫理を維持しながら実験を続ける必要がある / Credit:Canva . ナゾロジー編集部

ジョンは脳に刺し込まれた合計128本の電極により、さまざまな意思を伝えてきました。


しかしALS患者に対して脳に刺し込んだ電極を介して意思疎通するという試みは世界ではじめてであり、技術は完ぺきではありませんでした


YES・NOなどを示す音階を明白に意思表示できたのは全実験過程135日のうちの107日(8割)のみでした。


また音階を合わせられる調子のいい日であっても、わかりやすい文章を作れた日は107日のうちわずか44日でした。


さらにジョンの単語を作成する能力は低下してきており、現在はほぼYES・NOを答えるのみになっています。


ジョンの言葉が途絶えた原因として研究者たちは電極が刺さっている脳部位が瘢痕(傷跡)化しており、神経信号が微弱になっていることをあげています。


脳に電極を打ち込む実験にとって瘢痕化は最大の問題の1つであり、現状では避ける手段は限られています。


またもう1つの原因として、ジョンの精神状態に変化が起きている可能性もあげられました。


人間の思考には「自発的な目的を示す思考」と「判断のみを行う反射的な思考」が存在します。


精神が脳の中に閉じ込められ、限られた手段でしか意図を伝えられない場合、目的を持った自発的な思考のほとんどは実現しません。


「〇〇を食べたい、〇〇へ行きたい、〇〇に会いたい、〇〇を見たい」と思っても何もできないとなると、人間は自発的な思考を放棄して反応だけを行うようになってしまうと考えられています。


ジョンの自発的な思考を取り戻すには電極の位置の再調整や精度の向上により、ジョンの意思を実現できる環境作りなど、より大規模な対応が必要となるでしょう。


そのためには、より多くの被験者たちの協力と実験データの収集が必要になります。


研究者たちは、脳に閉じ込められた人との意思疎通を続けていくことで、本人や家族にとって最善の道を探していきたいと語っています。


※この記事は2022年3月公開のものを再掲載しています。

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参考文献

Brain-computer interface helps patient with locked-in syndrome communicate
https://www.livescience.com/brain-computer-interface-als-communicate

元論文

Spelling interface using intracortical signals in a completely locked-in patient enabled via auditory neurofeedback training
https://www.nature.com/articles/s41467-022-28859-8

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 難病で「脳に閉じ込められた男性」、脳インプラントで家族との会話に成功