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黄金輝くか!山吹の花 ~平安和歌に見られる山吹~


春の代表である桜の花が散ると、春は一気に後半になります。その時期に昔から今に至るまで変わらず、道端や公園など野外で、ごく普通に見られるのが山吹の花です。

山吹については、以前にtenkiサプリで、採り上げられていますので、今回は重なりを最小限にして、山吹の平安和歌に関わった話題に触れてみます。


山吹の歌枕

山吹は、万葉集から詠まれています。



〈かはづ鳴く 神奈備川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花〉



蛙が鳴いている神奈備川(かんなびがわ)の河面に映って見えて、川の辺に、今咲いているのだろうか山吹の花は、というもの。

次は古今集ですが、歌い方に格別の時代差はありません。



〈かはづなく 井手の山吹 散りにけり 花の盛りに 会はましものを〉



蛙が鳴いている井手の玉川の辺に咲いた山吹が散ってしまったよ、花の満開の時に会いたかったものを、といったもの。

この古今集の歌が山吹を歌った和歌の代表になります。

この時期の和歌は、実際の自然について、様々な場所での多様な変化を楽しむというより、人々の心の中で美しさの典型を決めて追求する傾向がありました。それが歌枕という概念を生じさせます。歌枕とは、和歌に詠む自然-景物-と定型的に組み合わせられる地名です。

たとえば、紅葉には立田川・立田山、雪・桜には吉野などいくつもあります。

山吹については、上に掲げた古今集の和歌にある「井手」が山吹の歌枕になります。「井手」 とは、「井手の玉川」と呼ばれる土地です。京都府綴喜郡井手町で、木津川に注ぐ玉川の辺、現在JR奈良線の玉水駅が最寄りです。

川辺に咲く山吹の花

川辺に咲く山吹の花


和歌マニアも好きな山吹-数寄者の話-

上の二首でともに詠まれる「かはづ」は、カジカガエルという蛙で、鳴き声が美しく趣きがあると言われます。山吹については、カジカガエルが美しい鳴き声を聞かせる井手の玉川の辺が、最も耳と目を楽しませる所とされたのです。

以前の記事で桜について、後拾遺集の頃に積極的に桜を見ようと山に出かける和歌が目立つと述べましたが、それは、桜についてだけのことではありません。さまざまな景物に対して、和歌を詠む人々は行動に積極的になってゆきます。そのような姿勢を、この時代には「すき」と言います。「好き」とも「数寄(奇)」とも書きます。この数寄を実践して和歌の上達を図る人を数寄(奇)者とか、好士と言います。

院政期の藤原清輔という歌人の著書「袋草紙」には、「数寄者」の話がいくつも見られます。ある数寄者が、やはり数寄者として知られる能因という僧侶歌人に会った時に、「鉋屑一筋(かんなくずひとすじ)」を出して、これは古今集で詠まれている名所の「長柄の橋(ながらのはし)」の鉋屑だと自慢したところ、能因は蛙の干からびた屍骸を見せて「これは井手の蛙」だと対抗したという内容です。能因について言えば、上に掲げた古今集の山吹の和歌世界を体感しようとの強い覚悟を表しているといったところでしょう。

二人そろっての作り話のようですが、それだけ和歌への執心が強いと自慢したということで、似たような話は他にも残っていて、和歌の時代性を表すこととして知られています。

◆合わせて読みたい!

日本の美のエッセンス、花見文化のはじまりは?-「古今和歌集」の後の桜-

清流とカジカガエル

清流とカジカガエル


和歌は紙に書くとは限らない

また、枕草子には次のような話があります。

清少納言は、一条天皇の皇后定子に宮仕えをしていました。枕草子はその宮仕え生活の一端を鮮やかに描いた優れたエッセイと言われます。長徳元(995)年に定子の父で関白だった藤原道隆が亡くなるや、政権は道隆弟の道長に移り、定子周辺は暗雲立ちこめることになります。外側からの厳しい状況は内側の混乱をも生じ、定子周辺は疑心暗鬼の不安が満ちてきます。そうした中で清少納言への中傷もあったのか、彼女は実家にしばらく逼塞することになります。そんな日々が続いたある日、ご主人定子から文が届きます。しかし、見ると、そこには何も書かれていません。文には山吹の花がひとつ入っていて、その花びらに何と、「言はで思ふぞ」とだけ書かれていたのです。えっ?、現代の我々には、そんな小さく破れやすく書きにくい所に書いたというのは、何かの間違いかとも疑われます。

実は、当時の歌集類をみると、数多くとは言えないまでも、通常の手紙を書く紙以外のものに和歌を書く例がいくつも見つけられます。むしろ、何か意図的に紙以外に書くことがあったようです。筆者が見つけたものを以下に列挙してみます。

扇、硯の箱の上、鏡、鏡の裏、鏡の箱の裏、屏風、障子、壁、柱、門、鳥居、岩、桜の花、桜の木、葵、梶の葉、楓の紅葉、竹の葉、枕、瓜、鍋、押しくくみ(産着)、かひな(腕)

実にバラエティに富んでいて、むしろ何にでも書けたとでも言えそうです。前に引用した「袋草紙」には、小さな貝31個に一文字づつ書いて送られた女が困って、萩の葉31枚に意味なく字を書いて返事にしたところ、葉は二三日で枯れて読めず、事もなく終えたという話が載っています。笑い話でしょうが、そのようなことも実際にあったのかもしれません。

今の定子からの場合、筆者は「言はで思ふぞ」が、山吹の5枚の花びら1枚ごとに、濁点や送り仮名は略して、「い・は・て・思・そ」と書かれていたと考えています。上に挙げた中には桜の花もありますし、米粒に字を書く人もいるぐらいですから不可能ではないでしょう。


山吹の色は、「口なし」色

さて、その内容ですが、古今和歌六帖という、当時歌を作る上での手引きを目的に編まれたとされる歌集に 「いはで思ふ」という項目の一首目に載っている、次の恋の和歌の四句目だけを、定子は書き出したのでした。



〈心には 下ゆく水の わきかへり 言はで思ふぞ 言ふにまされる〉



全体は、私の心の中は、地下水が湧き返るようなのですが、言わないで思っている方が、口に出して言うより深い思いなのです、といった内容です。

この和歌の「言はで思ふぞ言ふにまされる」については、大和物語という作品にも出ています。ある帝が、大切にしていた「磐手(いはて)」という鷹が逃げてしまった報告を受けて、つぶやいたとされています。帝は鷹に逃げられた寂しさから、鷹の名を掛けつつ、知られている和歌の一部を言ったのでしょう。「心には…」の和歌は、和歌を日常的に親しんでいる当時の貴族なら、簡単に思い当たるもので、清少納言も定子がこの歌の一部を書いたのだと気づき、定子が表だって自分をかばうことはできなかったが、今の状況を憂慮して、自分のことを深く心配しているのだと理解したことでしょう。

さて、なお問題は、なぜ和歌の一部を書くにしても、もっと大きな木の葉でもなく、山吹の花だったのかということです。その解答は、次の古今集の山吹を詠んだ和歌にあります。



〈山吹の 花色衣 ぬしや誰 問へど答へず くちなしにして〉



この歌は、僧侶の着る黄色い衣(山吹の花色衣)が誰のものか尋ねても、答えがない、それは衣が梔子(くちなし)染めなので、口がないからだという歌です。つまり、山吹の花=黄色=梔子=口無し、と連鎖し、 山吹の花=口無し となります。その「口無し」が「言はで思ふぞ」の「言わない」と重なるので、「言はで思ふぞ」を書くのに、山吹の花が選ばれたということなのでしょう。

定子のしたことは、

1.自分の思いを古歌に託し、歌句の一部で示す、2.歌句につながる「くちなし」の縁で山吹の花びらを選んで歌句を書いて贈るという、優雅さはあるけれど、実に手の込んだ行為です。言うまでもなく、そうすることで清少納言への並々ならぬ慈しみの心を表しているのです。その定子の思いを清少納言もしっかりと受け止め、感激して、再び定子のもとで仕える決心をすることになります。定子と清少納言の心の強いつながりを山吹が示していると言っても良いでしょう。

現代人で山吹に注目する人は、まれかもしれません。それほど、現代では地味な花ですが、近世では、黄金を山吹色と言ったりもしました。現代の金メダルですね。似たことで、新幹線の設備検査車両のドクターイエローを見たら幸運にあうと言われます。

可憐でよく見れば華やかさもある山吹に目を注いでみてはいかがでしょうか。

参照文献

歌ことば歌枕大辞典  久保田淳・馬場あき子 編     (角川書店)

袋草紙  藤岡忠美 校注      (岩波書店 新日本古典文学大系)

枕草子  松尾聰・永井和子 校注  (小学館 新日本古典文学全集)

古今和歌六帖              (角川書店 新編国歌大観第2巻)

大和物語  高橋正治 校注      (小学館 新日本古典文学全集)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて (27)清少納言の再出仕 筆者 赤間恵都子

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