はじめに
島津斉彬(しまづなりあきら)といえば、大河ドラマ『篤姫』のヒロインである篤姫の義父として有名ですよね。
島津斉彬は全国で最初に日本を近代化に導こうとした人物でもあるのです。
今回は、そんな島津斉彬のゆかりの地をご紹介したいと思います。
『篤姫』にも登場!島津斉彬とは?
島津斉彬は、島津家第28代当主。天璋院篤姫の父にあたる人物です。
幼い頃より、曾祖父である重豪(しげひで)が外国文化に強い関心を示していたことから、その影響を受け、島津斉彬自身も国外の情報に精通するようになります。
そして、1840年の中国とイギリスとのアヘン戦争を機に、富国強兵と殖産興業政策に力を入れ、日本人の先駆けとして、近代化の一歩を踏み出します。
軍事力の強化だけでなく、領民の暮らしが豊かにになるよう、民需産業を育成したり、教育水準を上げたりと、社会基盤の向上にも努めました。
そして、薩摩藩だけでなく日本全国の軍需や産業、制度の近代化に対する政策や、導入を呼び掛けていったのだとか。しかし、藩主に就任して7年後の1858年に、50歳という若さで急逝します。
島津斉彬の治世期間は短いものでしたが、明治維新から近代化への原動力となった薩摩藩にとって、島津斉彬の政策や思想が多大な影響を与えたことに間違いありません。
『篤姫』にも登場!島津斉彬ゆかりの地その① 石橋記念公園
最初にご紹介する島津斉彬のゆかりの地は、「石橋記念公園」です。
島津斉彬が富国強兵政策の一環として命じて作らせたものの一つが、祇園之洲砲台。
この祇園之洲砲台があった場所に作られたのが、こちらの公園なんです。
祇園之洲砲台は、島津斉彬の死後に行われた薩英戦争時に使用された1つでもあるんだとか。
戦争当時、薩摩藩からの攻撃で一隻船を座礁させたとの記録がありますが、その際すでに祇園之洲砲台は破壊されていたようです。
このことからも、当時のイギリスの圧倒的な戦力をはかり知ることができますよね。
この薩英戦争が、明治維新の足掛かりともいえる“薩長同盟”のきっかけともいえ、歴史的に重要な戦争となりました。
現在は鹿児島市指定文化財の「旧薩摩砲台跡の碑」として保存されています。
◆石橋記念公園
住所:鹿児島県鹿児島市浜町1-3
電話番号:099-248-6661
『篤姫』にも登場!島津斉彬ゆかりの地その② 仙巌園(磯庭園)
次にご紹介する島津斉彬のゆかりの地は、仙巌園(せんがんえん)です。
別名、磯庭園(いそていえん)とも呼ばれますよ。
仙巌園は、もともと1658年に薩摩藩19代当主であった、島津光久が作ったものです。
その後、薩摩藩の歴代当主たちが、さまざまな改築を重ねてきた庭園なんだとか。
島津斉彬はこの仙巌園の敷地の一部に、ヨーロッパ式の製鉄所やガラス工場を建設し、近代化事業を起こします。
現在でも園内には当時使用されていた反射炉跡や、復元された鉄製の150ポンド砲などが展示されていますよ!
◆仙巌園(磯庭園)
住所:鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
電話番号:099-247-1551
営業時間:8:30〜17:30
料金:大人(高校生以上)1,000円/小・中学生500円
磯庭園(仙巌園)
『篤姫』にも登場!島津斉彬ゆかりの地その③ 鹿児島城跡
次にご紹介する島津斉彬のゆかりの地は、「鹿児島城跡」です。
今から約400年前、城山の麓に建設された薩摩藩の居城がありました。
屋形造りの平城は、鶴が翼を広げている形に見えることから、別名・鶴丸城とも呼ばれました。
島津斉彬は実は、江戸生まれの江戸育ち。
鹿児島城で過ごした時間は、藩主を務めた7年のみなんだとか。
それでも、この場所で政策を指揮した勇姿は、歴史的に重要だったといえるでしょう!
◆鹿児島城跡
所在地:鹿児島県鹿児島市城山町
電話番号:099-298-5111
『篤姫』にも登場!島津斉彬ゆかりの地その④ 天保山御陣屋跡
次にご紹介する島津斉彬のゆかりの地は、「天保山御陣屋跡」です。
島津斉彬は、列強欧米各国のアジア進出に危機感を抱いたため、富国強兵の政策を指示。
海外防衛策として、砲台を建設することはもちろん、軍隊の訓練にも力を入れました。
その練習場が、天保山御陣屋跡なのです。
大々的な訓練が日々行われ、島津斉彬も自ら練習の指揮をとっていたんだとか。
現在は天保山中学校にある陣屋跡がその指揮所でした。
島津斉彬は、“安政の大獄”で知られる井伊直弼の幕政に対して不信を抱いていました。
薩摩藩の精鋭を率いて朝廷を守護し、幕府改革に乗り出すつもりで軍事演習を行っていたのです。
しかし、1858(安政5)年7月6日の炎天下の練習後に高熱を出し、10日後に死去してしまいました。
◆天保山御陣屋跡
住所:鹿児島県鹿児島市下荒田2
電話番号:099-286-4700 (鹿児島観光コンベンション協会)
天保山御陣屋跡
『篤姫』にも登場!島津斉彬ゆかりの地その⑤ 玉龍山福昌寺跡と斉彬の墓所
次にご紹介する島津斉彬のゆかりの地は、「玉龍山福昌寺跡」と斉彬の墓所です。
歴代の島津藩主は、玉龍山福昌寺(ぎょくりゅうざん ふくしょうじ)に埋葬されていました。しかし1869年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、玉龍山福昌寺が破壊されてしまうのです。
お寺の建物は破壊されましたが、墓地はそのまま残されました。
そのため、島津斉彬とその妻の英姫のお墓は、寄り添うように二つ並べられているんですよ。
門が開いていれば、一般の方もお参り可能とのことです。
◆玉龍山福昌寺跡
所在地:鹿児島県鹿児島市池之上町
電話番号:099-247-1511(尚古集成館)
玉龍山福昌寺跡
『篤姫』にも登場!島津斉彬ゆかりの地その⑥ 照國神社
最後にご紹介する島津斉彬のゆかりの地は、「照國神社」です。
照國神社は、島津斉彬の死後にその功績をたたえて、照國大明神の神号をもらった島津斉彬を祀って建立された神社です。
社殿は1864年に建立されていましたが、西南戦争や第二次世界大戦によって幾度か焼失し、復旧されました。
島津斉彬は、現在でも鹿児島の人から慕われており、鹿児島市民の氏神様的存在として敬愛されているんです。
◆照國神社(てるくにじんじゃ)
住所: 鹿児島県鹿児島市照国町19-35
電話番号:099-222-1820
照國神社
おわりに
島津斉彬は、藩主としての任期は短かったものの、薩摩武士たちに近代化に伴う「明治維新」への思想に、大きな影響を与えた人物であることは確かです。
島津斉彬がいなければ、もしかしたら薩摩藩が新政府側の筆頭にいなかったかもしれません。
日本の近代化の先駆けともいえる、島津斉彬のゆかりの地を巡って、当時の薩摩に思いを馳せてみませんか?