1980年代から、国内外の二輪レースをファインダーに収めてきた磯部孝夫カメラマン。その秘蔵フィルムをもとに、かつて数多くのファンを魅了したライダーやレースを振り返ってみたい。今回の主役は、WGP(ロードレース世界選手権)で通算31勝、4度の世界タイトルを獲得した「ステディ・エディ」ことエディ・ローソンだ。



PHOTO●磯部孝夫(ISOBE Takao)

ヤマハとホンダ、両極端のマシンを乗りこなして連続王者の偉業はエディ・ローソンの真骨頂

1984年のローソン。ベルギーGPではスペンサー、マモラ 、ロッシュのホンダ勢の後塵を拝したものの、1ヶ月後のスウェーデンGPで優勝し、タイトルを決定してみせた。

オランドGP(アッセン)では、スペンサーがリタイアしたことを受けて無理をせずに3位フィニッシュ。一発の速さと堅実さを兼ね備えた「ステディ・エディ」らしいレースとなった。

ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ1985年は3勝にとどまり、7勝をあげたスペンサー&NSR500に8ポイント届かず。

ル・マンのサルトサーキット名物、ダンロップブリッジを駆け上がるローソン。1985年仕様のYZR500は相互逆回転2軸クランクに進化し、タイヤもダンロップからミシュランにスイッチして連覇を狙った。

ローソン&スペンサー時代が続くかと思われた1986年だが、スペンサーは手首の負傷で戦線離脱。新進気鋭のオージー、ワイン・ガードナーが3勝を挙げる活躍を見せたものの、7勝のローソンが貫禄の王座奪還を果たす。この年のYZR500(OW81)は大型化されたシートカウルとブレンボのニュータイプのブレーキキャリパーを採用。5万人の観客で賑わったポールリカール・サーキット(フランス)では、肩の怪我と戦いながら優勝を果たした。

スピード・ウィークと称して月・火にヨーロピアン選手権、木にF1が開催された1986年のオランダGP。決勝では珍しくブレーキミスにより転倒・リタイヤを喫した。

パドックではこんな笑顔を見せる場面もあった。1987年のユーゴスラビアGP、リエカサーキットにて。

1987年のローソンは、冷却性能の向上を狙った「ガンダムカウル」をまとったYZR500(OW86)のバランスの悪さに手を焼き、ランキング3位に後退。15戦中10回のポールポジションと7勝を挙げたワイン・ガードナーがGPの頂点に立つ。しかし、イギリスGPではローソンが意地でガードナーを抑えて優勝。

1988年のオーストリアGPは、ヤマハが1-2-3フィニッシュ。ウェイン・レイニー、ディディエ・デ・ラディゲスを従えて23回目の優勝を遂げたローソンが、表彰台の中央でシャンペンを振り撒いた。

1989年、ローソンはマールボロ・ヤマハのジャコモ・アゴスチーニ監督との確執からヤマハを飛び出し、ゼッケン1とともにホンダへ移籍。倒立フロントフォークとガルアームタイプのリヤスイングアームを新採用したNSR500の熟成を図り、チャンピオンを再び手繰り寄せた。

1989年はHRCではなく、アーブ・カネモトとともに結成したカネモト・レーシングから参戦。ワークスチームと同様のマシンが与えられ、新フレームを次々に投入してNSR500のハンドリングを改善していった。

1992年をもってWGPから引退したローソンだったが、1993年はデイトナ200で優勝。さらにホンダのマシンで鈴鹿8耐2勝目を目論んだが、24周目の逆バンクでまさかの転倒。ペアライダーの辻本聡とともに懸命に追い上げたものの2位に終わった。

WGP500ccで31勝を挙げ、四度の世界王者に輝いた偉大なGPライダーがエディ・ローソンだ。



本名はエディー・レイ・ローソン。1958年3月11日、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスの東に位置するアップランド生まれ。父と祖父がレースをしていたこともあり、ローソンは7歳のときにヤマハの80ccに乗り始め、12歳になるとカワサキ・グリーンストリークで地元のダートトラックに参加するようになった。当時のカリフォルニアでは、まだ年端もいかない子供がレースに参加することも珍しくなかった。最初はおっかなびっくり、慎重に走っていた者の半年もするとメキメキと腕を上げたローソン。13歳になると、祖父が50ccのイタルジェットを買ってくれたのをきっかけにロードレースにも挑戦。その後、ヤマハRD350に乗り換えたローソンは、ロードレースでも速いライダーとして名を知られる存在となる。



ローソンは、1978年にAMAのエキスパートライセンスを取得。チームメイトのウェイン・レイニーとともにヤマハのマシンでダートトラックに参戦。猛威を奮っていたハーレー・ダビッドソンとはマシン性能に差があったため苦戦は免れず、エキスパート・シーズンのベスト・フィニッシュは、シカゴ近郊のサンタフェ・スピードウェイで行われたTTナショナル5位にとどまった。



一方、ロードレースでは1979年のAMA 250グランプリ・ナショナルでシリーズ2位に入る活躍を披露(ちなみに、この年のシリーズ1位はフレディ・スペンサー)。その年の終わりには、カワサキがウィロー・スプリングス・レースウェイで行ったスーパーバイクのトライアウトに参加し、ベストタイムを記録し、翌年の契約を勝ち取った。



ローソンは、いともたやすく1000ccのスーパーバイクを手懐けて見せた。「かなり重いがパワーがあって、広いハンドルバーで、まるでフラットトラッカーのようにコーナーをパワースライドしながら走ることができたんだ」とローソンは振り返る。



1980年4月、アラバマ州タラデガで開催されたスーパーバイクのナショナルレースで初優勝を果たしたローソンは、フレディ・スペンサーやウェス・クーリーと壮絶なバトルを繰り広げた。この年は惜しくもチャンピオンを逃したものの、翌1981年シーズンは見事に雪辱を果たすこととなる。ローソンはスペンサーとの歴史的な一騎打ちを制し、KZ1000とともに王座に就いた。



ローソンは1982年もAMAにフル参戦。マイク・ボールドウィンを退けて、2年連続でチャンピオンを獲得することに成功した。



アメリカで己の実力を存分に証明してみせたローソンの視線は、ヨーロッパに注がれていた。アメリカン人として初めてWGP500ccチャンピオンに輝いた偉大な先輩であるケニー・ロバーツのチームメイトとして、1983年はヤマハからWGPフル参戦を果たすこととなったのである。



ローソンのデビュー・イヤーは波乱万丈の年だった。開幕戦の南アフリカでさっそく8位入賞を果たした後、第3戦のイタリアでは初表彰台を獲得するなどルーキーとしては上々の滑り出し。しかし、この年はヤマハのケニー・ロバーツとホンダのフレディ・スペンサーが歴史に残るチャンピオンシップ争いを行った年で、ローソンはロバーツの援護役を果たすことが求められることとなる。



最終戦のサンマリノを前にして、ロバーツはスペンサーに5ポイントの差をつけられていた。仮にこのレースでロバーツが優勝しても、スペンサーが2位に入れば、チャンピオンの座はスペンサーのものとなる。そこでローソンに与えられた使命が、スペンサーの前に割って入ること。しかし、決勝レースでロバーツはトップでチェッカーを受けたものの、その1秒後にスペンサーがゴール。ローソンはスペンサーの前を走ることは叶わず、スペンサーが最年少で1983年の世界チャンピオンに輝いたのだった。



WGPから引退したロバーツに代わり、1984年からローソンはヤマハのエースに昇格した。この年、ホンダがスペンサーのために用意したV型4気筒のニューマシン、NSR500は燃料タンクを車体下部においた革新的なレイアウトを採用。しかしホンダはその熟成に手間取り、スペンサーはシーズン途中で前年マシンの3気筒NS500を引っ張り出す始末。そんなライバルの右往左往ぶりを尻目に、ローソンは開幕戦での初優勝を含むシーズン4勝を記録し、ランディ・マモラ(ホンダ)を31ポイントという大差で下して見事に初戴冠を果たした。



その後、ローソンは1986年、1988年、そして1989年に世界タイトルを獲得。特に1989年はヤマハからホンダへ電撃移籍し、異なるメーカーで2連覇を果たすという偉業を達成した。1991年からは、「2年契約で数百万ドル」と噂される契約金とともに、カジバへと移籍。ローソンはポテンシャルの劣るイタリアンバイクの戦闘力を徐々に高めていき、1992年のハンガリーGPではついにカジバに初勝利をプレゼント。この年限りでWGPを去ることになったローソンにとっては、これが最後の勝利となった。



「パドックの一員として過ごした日々は楽しかった。勝ったことも勝てなかったこともいい思い出だ」と引退時に語ったローソン。10年の間にローソンがWGPで築き上げた勝ち星は31にのぼる。そのほかに31回の2位、16回の3位を獲得しているあたりは、「ステディ・エディ」の面目躍如といったところだろう。



だが、ローソンのレースキャリアはこれで終わったわけではなかった。1993年にはデイトナ200に復帰し、スコット・ラッセルとの熾烈なバトルを制してトップフィニッシュ。さらには活躍の場を4輪に移し、アメリカン・オープンホイールレースの最高峰であるCART(現インディカー)にも挑戦。6位フィニッシュを記録するなど、4輪でもその才能を発揮した。



また、ローソンといえば鈴鹿8耐の活躍に触れないわけにはいかないだろう。資生堂TECH21レーシングチーム・ヤマハでYZF750を駆った1990年の大会では見事に優勝を果たしたが、これはペアライダーの平忠彦にとって悲願の8耐制覇であった。また、1993年には盟友アーヴ・カネモトのチームからホンダRVF750で出場、辻本聡とのペアで2位に入っている。この年のスポンサーはコンビニエンスストアのam/pmで、「ローソンがam/pmに乗る」と(一部で)話題になった。翌1994年には再びヤマハに乗り、4位の成績を残している。



すべてのレースから引退したローソンは今、1年の大半をアリゾナ州レイクハバスの湖畔で静かに過ごしている。

人物写真撮影:山田俊輔

1949年生まれ。山梨県出身。東京写真専門学校(現東京ビジュアルアーツ)を卒業後、アシスタントを経て独立。1978年から鈴鹿8耐、83年からWGPの撮影を開始。また、マン島TTレースには30年近く通い続けたほか、デイトナ200マイルレースも81年に初めて撮影して以来、幾度も足を運んでいる。

情報提供元:MotorFan
記事名:「 ときに速く、ときに強く。4度の世界タイトルを獲得したエディ・ローソン。【磯部孝夫カメラマンが紡ぐWGPの世界】