去る9月3日、アメリカのGM(ジェネラル・モータース)とホンダは北米市場での戦略提携について合意したと発表した。ことし4月には、両社でBEV(バッテリー電気自動車)を共同開発し、GMの工場で両ブランド向けモデルを生産するという協業を発表している。今回はプラットフォームとパワートレーンの共同開発・共同使用という、いわば自動車メーカーとしてのコア事業にまで協業を拡大させることでの合意だ。しかし資本提携は考えていない。そこには「世の中がどっちへ転んでもOKにしたい」という意図が見える。
TEXT◎牧野茂雄(MAKINO Shigeo)
1999年12月にGMは、ホンダからV型6気筒3.5ℓエンジンとAT(オートマチックトランスミッション)をセットで購入する契約を結んだ。実際の供給は2004年8月に始まり、サターン「ヴュー(VUE)」というSUVモデルに搭載した。契約期間は5年間だったが、当初の購入予定数だった9万基を大きく下回る5万基にとどまった。
ホンダがGM向けに出荷したエンジンは、カリフォルニア州のULEV=ウルトラ・ロー・エミッション・ビークル排ガス規制に適合しており、GMは自社でこの代替エンジンの量産が始まるまでの「つなぎ」としてホンダ製を採用した。サターン・ヴューは韓国・大宇自動車が製造を担当するモデルであり、本来なら2000年に生産開始の計画だったが、2000年に大宇自動車が破綻したことで生産計画が遅れたという経緯がある。
なぜ、GMがホンダにエンジン/トランスミッションをセットで製造依頼したのか。当時、筆者は両社に公式あるいは非公式に理由を尋ねたが、もちろん、日本と韓国が地理的に近いという事情もあった。ただし、パワートレーンを海外出荷する場合は厳重な梱包が必要なものの、梱包してしまえば輸送距離はあまり関係がない。したがって単純に日本と韓国の間の距離的要件だけではなかった。2000年前後の自動車業界には「他者と組んでみる」という空気が流れており、そのムードが経営にも影響を与えていた。少々長くなるが、GM=ホンダの戦略提携の背景を、時代を遡って説明する。
大宇自動車のルーツは1937年設立の國産自動車(韓国語読みはグクサンチャドンチャ)である。セナラ自動車と社名を変えてからは日産と、新進自動車になってからは新三菱重工およびトヨタと、それぞれ提携していた。1972年にトヨタとの提携が解消され、GMが資本参加して社名はGMコリアになるが、その4年後の1976年に韓国産業銀行が資本参加しセハン自動車となる。
しかし、所有者が変わってもこの会社はGMとの提携を続けていた。セハン自動車が1976年の誕生後に生産開始したのはいすゞ・ジェミニ、エルフだった。いすゞは1971年にGMと資本提携し、ベレットの後継モデルとしてGMから「Tカー」プラットフォームの供給を受け、これを「ベレット・ジェミニ」として販売していた。つまりジェミニは当時のオペル・カデット、ボクソール・アストラと兄弟車であり、大宇はGM極東展開部隊としてのいすゞの支援によってジェミニのKD(ノックダウン=部品をすべて輸入し組み立てだけを行なう方法)組み立てを1976年に開始した。
そのわずか2年後の1978年、今度は韓国産業銀行が所有するセハン自動車株を大宇財閥が買収した。社名は大宇自動車になったが、GMとの関係はそのまま続いた。1991年に大宇自動車は、GMグループ企業だったスズキから軽自動車の供給を受けることになり、スズキ・アルトを大宇・ティコとしてKD生産開始した。
その直前、1999年12月にGMは富士重工(現スバル)に20%を出資する資本提携を行なった。これは日産自動車が保有していた富士重工株であり、防衛産業でもある富士重工の株が得体の知れない企業に渡るのを防ぐため、経済産業省および当時の政権の判断として「信頼の置ける同盟国の老舗企業になら譲渡やむなし」との結論に至った結果の譲渡だった。日産がルノー傘下になるにあたり、防衛産業との関係は清算された。
ホンダとGMが初めて顔を合わせたのは、意外にも大宇自動車という韓国企業でのことだった。アルカディアのKD組み立てにはGM本社も興味を示し、ホンダとGMの技術者が交流を持った。筆者が1994年にGMのアジア太平洋部門にインタビューした際、GMの担当者は「ホンダとのつながりができたことは神の思し召しだ」と語った。
2000年1月のNAIAS(北米国際自動車ショー=通称デトロイト・ショー)で筆者が驚いたのは、GMブースに飾られていた1台のクルマだった。GMのデザイナーはこう言っていた。
「スバルがウチと資本提携すると聞いて、ウヮオ! すごいじゃないかと思った。GMにはスバルのファンが多いんだよ。とくに技術部門にね。で、会社に頼んでスバルからレガシィを1台もらった。それをこういうふうに作り変えたんだ」
GMのデザイン部門が、会社同士のジョイントビジネスを待ちきれずに、ほとんど勝手にショーカーを作ったのだ。日本の自動車メーカーではあり得ないことだ。このころ、GMのリチャード・ワゴナーCEO(最高経営責任者)はスバルだけでなくイタリアのフイアットも傘下に収め、たしかにGM社内のムードも良かった。
日本ではほとんど知られていないが、GMはありとあらゆるものを試作する会社だった。フルードカップリングを使った大型車用の自動変速MTや鉄を使わない自動車ボディなどが、GM研究施設の倉庫には眠っている。筆者は「新しい研究は、予算10億ドルまでなら比較的すんなりと了承されるし、量産に移す必要もない」と聞かされて驚いたのを覚えている。日本なら100万円の予算を獲得するのも大変だというのに、GMは1000億円のR&D(研究開発)プロジェクトをいくつも抱えていたのだ。
モノにならなくても、やってみることが大事。筆者が知るGMのR&D部門はそういうところだった。だからBEV(バッテリー電気自動車)の開発も1987年ごろに始めていた。そして、現在のBEVが当たり前に使っているアクセルペダル入力に対するモーターとバッテリーの制御ロジックを、まだ鉛酸電池しか使えない時代にGMは完成させた。
990年にこの試作BEVは、コンセプトカー「インパクト」として発表された。その2年前、オーストラリアで行なわれたソーラーカーレース「第1回ワールド・ソーラー・チャレンジ」にもGMは自前のソーラーカーを持ち込みワークスチームとして参加し優勝している。1990年発表の「インパクト」は、1996年に市販車「EV1」として発売された。1980年代後半からGMは、外部から電気エネルギーのエキスパートを迎え、彼らが車内を教育し、エンジニアがどんどん育っていった。
1996年1月4日、LA(ロサンゼルス)オートショー会場でEV1が発表されたその日、私はNAIAS取材のためデトロイトにいた。「うゎ〜LAへ行けばよかった!」と後悔した。GMブースをうろうろしていると、GMの広報担当者が翌1月5日の午前9時に始まる「サターン・ブレックファストミーティング」の招待状を私に手渡した。「来れば絶対にいいことがあるよ」と。
行って驚いた。そこにはEV1があったのだ!
たった1台しかない量産試作前のEV1を、GMはLAからデトロイトへ空輸し、ショー会場に運び、きれいに磨き上げて飾ったのだ。「楽しいクルマだから、あなたもぜひ試乗に来て欲しい」とGMの役員から直に言われたのを憶えている。そして彼は「GMは何にでもチャレンジする。世の中がどう動こうが、我われは慌てない会社でいたい」と、非常に印象的な言葉を筆者に語った。
最初の年の1997年モデルEV1は、販売ではなくリースだった。以降もずっとリースだった。そして突然、GMはすべてのリース契約を打ち切り、すべてのEV1を回収した。この出来事はドキュメンタリー映画『だれが電気自動車を殺したか?』に描かれている。
カリフォルニア州のZEV(ゼロ・エミッション・ビークル=無公害車)は後退し、GMのEV1に触発されて各社がカリフォルニア州の販売店に投入したBEVはすべて供給打ち切りになった。GMは「電気で走るクルマがモノになること」を示し、プロジェクトを打ち切った。あとで聞いた話では、研究開発費込み、量産設備投資込みで計算するとEV1の市販価格は10万ドルに近かったそうだ。EV1の10年後に登場する初代トヨタ・プリウスも、車両価格215万円に対し製造原価が500万円以上だったと聞いている。
2000年ごろ、BEVに代わってアメリカの自動車業界が開発に着手したのはFCEV(燃料電池電気自動車)だった。GMはこの分野でも先頭を走るトップランナーになったが、そのGMの横を並んで走ったのがホンダだった。
アメリカでのFC(燃料電池)スタック利用は1960年代にNASA(アメリカ航空宇宙局)が取り組んだジェミニ計画が始祖だった。ここで開発された固体高分子膜型FCは国防総省に注目され、のちにクリントン政権でのFCEV戦闘偵察車計画に結び付くが、すでに1966年の時点でGMは国産(ユニオンカーバイト製)の固体高分子型FCスタックを使ったFCEVの試作車を持っていた。
のちにカリフォルニア州でのFCEV実証実験でGMとホンダは接近する。筆者が上海のPATAC(GMが運営する中国のR&Dセンター)を取材で訪問したとき、FCEVを担当するGMのスタッフは「ホンダのエンジニアはFCのことをじつによく知っていた。アメリカでのFC研究のことも、だれが研究のキーマンだったかもよく知っていた。意見交換した回数は数えきれないほどだった」と筆者に語った。
VWとフォード、ホンダとGMはリスク分散契約を結んだ。筆者はそう考える。いつ実用化するかわからないレベル3以上の自動運転。本当に普及するかどうかわからないBEV。いつ訪れるかわからない水素社会。しかし世の中はいまでも、おそらく10年先の将来でも燃料インフラが整っているICE(インターナル・コンバッション・エンジン=内燃機関エンジン)を積んだクルマを求める。ならば、ぜんぶひっくるめてリスクを分かち合うパートナーを見つければいい。
VWが開発したBEV専用プラットフォームMEBは、それまでのMQBプラットフォームを使ったBEVよりもはるかに低コストでBEVを量産できるだろう。VWは何も言っていないが、使われている鋼板種と、その接合のほとんどが電気抵抗スポットであることと、RR(リヤエンジン・リヤドライブ)でること(衝突対策がラクになる)と、インナー骨格がほぼ直線構成であることなどからの筆者の推測である。素材メーカーに意見を求め、生産ラインの動画を何十回も見て設備費を試算し、筆者がこれまでに行なった300回を超える工場取材での取材メモと1万枚以上の写真をベースに導き出した結論である。
それと、VWが打ち出している「ID.」ブランドのBEV商品計画と生産ラインの設置計画である。MQBを使った「e-ゴルフ」は原価が高い。しかしBEV専用プラットフォームMEBを使うと安くなる。これをフォードに使ってもらえればなおさら量産効果が出る。GMは8月半ば以降、報道向けサイトや米・オートモーティブニュースへのコメントなどでBEVの商品計画を少しずつ明らかにしているが、考え方はVWと同じだ。安く作れる設計と両算数の確保である。
VWがMEBを発表したとき、メディアの多くは「BEVに本気になったVW」と書きたてた。そもそもBEVをVWブランドではなく「ID.」という新ブランドに独立させた時点から、VWは世の中がBEVとICEV(内燃機関搭載車)のどちらに傾いてもいいような体制を作ろうとしてきた。その結果が、コストのかかるMQBでのBEV量産ではなくMEBの新設だった。もともとMQBは電動車まで視野に入れた設計だが、専用プラットフォームのほうが安いとVWはあとになって判断したのだ。
BEVとICEVの両立はメルケル政権との約束でもある。旧知のドイツ人ジャーナリストからは「どんなケースでも雇用を守ってほしいとVWは念を押された」と聞いた。欧州での報道を見ればVWの決意はよくわかる。いっぽう、アメリカはBEVに興味がないように見えるが、自動車業界はすでにICEVとBEVの両方を見ている。そしてGMはFCEVまで見ている。
トヨタも同じだ。トヨタはHEV(ハイブリッド・エレクトリック・ビークル)を中心に据え、2次電池を積み増せばPHEV(プラグイン・ハイブリッド・エレクトリック・ビークル)になり、発電と駆動に使っているICEを降ろせばBEVになる。「電動モーター×2次電池」が電動車のパワートレーンであり、ここにICEを絡めているのがHEVだ。2次電池をオプションに位置付け、その増減でいかようにもパワートレーン仕立てられる。それがトヨタ方式であり、トヨタは電池技術もモーター制御技術も持っている。メディアは「BEVに出遅れたトヨタ」などと言うが、まったくの勘違いである。
トヨタはすべて自前でできる。VWは規模を含めてフォードをパートナーに選んだ。ルノーは日産のエンジンを使ったHEV/PHEVシステムを完成させ、これを展開する。オートモーティブニィース・ヨーロッパの記事には、日産ブランドもこのルノーのHEVシステムを使うと書いてある。いっぽう、BEVは日産に任せる。しかし、双方の技術資産は利用し合う。GMはホンダを選んだ。これらはすべて、どう転ぶかわからない時代のリスク分散を狙った動きである。そう考えれば、すべて辻褄が合う。