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不世出の天才ライダー、フレディ・スペンサーを振り返る。【磯部孝夫カメラマンが紡いだWGPの世界】


1980年代から、国内外の二輪レースをファインダーに収めてきた磯部孝夫カメラマン。その秘蔵フィルムをもとに、かつて数多くのファンを魅了したライダーやレースを振り返ってみたい。今回の主役は、世界最高峰の二輪レース、WGP(ロードレース世界選手権)で一世を風靡したフレディ・スペンサーだ。




PHOTO●磯部孝夫(ISOBE Takao)

83年、最年少王者。85年、ダブルタイトル。フルスロットルでGPを駆け抜けたスペンサー

スペンサーをピットで支え続け、計三度のチャンピオンに輝いた名メカニック、アーブ・カネモト(写真左)。日系三世のアーブは、エディ・ローソン(500cc)やマックス・ビアッジ(250cc)とのコンビでも王座に就いている。

まだあどけなさの残る表情のスペンサー。「彼はいつも難しい顔をしていた印象があるなぁ」とは磯部カメラマン。84年はダイネーゼのレザースーツを着ていたが、85年には南海部品と契約。95年に引退するまで同社のレザースーツとともに戦い続けた。

84年のスペンサーは、コースによってパフォーマンスの波が激しいNSR500に手を焼く。スパ・フランコルシャンサーキット(ベルギーGP)の決勝レースはNS500で出場したため、NSR500で走行している写真はおそらく練習走行中のものと思われる。

85年はスペンサーの絶頂期。ベルギーGPを独走で制した。スペンサーの後塵を拝しているのは、アウト側のステップから足を外す「マモラ乗り」がトレードマークだったランディ・マモラ。

ロスマンズ・カラーのスカッシュでパドックを移動するスペンサー。後ろに乗るのは、元婚約者のサリー・ジョベール。彼女はスペンサーがドタキャンしたイベントで、代わりにトークショーを行った…という逸話もある。「本当に仲が良い2人でしたねぇ。出しゃばることなく、スペンサーよりも一歩引いたところにいるような女性でした(磯部カメラマン)」。しかし85シーズンを最後に、2人は別々の道を歩むこととなる。

85年、雨のために2ヒート制となったオーストリアGP(ザルツブルクリンク)で、エディ・ローソンを下したスペンサー。2ヒートの合算タイムはわずか0.03秒差だった。3位はクリスチャン・サロン。

スペンサー専用マシンとして開発されたRS250RW。第9戦のフランスGP(写真)で勝利して6連勝を果たしたスペンサーは次戦のイギリスGPで4位に入り、250ccのタイトルを獲得した。

85年はWGP開幕前にアメリカでデイトナに出場。スーパーバイクルールで初めて行われた200マイルレースをホンダVF750F(インターセプター)で制したほか、フォーミュラ1クラスはNSR500で、ライトウェイトクラスはR250RWでも制覇。デイトナの3大レースを総なめにした後、ヨーロッパに乗り込んだスペンサーはWGPでも2クラス制覇の偉業を成し遂げたのである。

87年、復活を期してデイトナ200マイルにVFR750とともに乗り込んだスペンサー。予選最速タイムをマークするものの転倒、骨折。決勝レースを走ることなく、サーキットを去ることとなってしまった。

1987年はロスマンズのスポンサーを失ったスペンサー。シーズン途中からWGPに復帰したが、2戦を走っただけで参戦を取りやめることとなる。

手首の故障が完治したとして、89年はジャコモ・アゴスティーニ率いるマールボロヤマハチームからフル参戦を表明したスペンサーだったが…。この年のヘルメットは、レッド×ブラック×ホワイトのマルボロカラーにペイントされていた。スペンサーの話を聞いているのは、ケル・キャラザース。ケニー・ロバーツやエディ・ローソンとともに数多くのタイトルを獲得した名メカニックだ。

フレディ・スペンサーは1961年、アメリカ・ルイジアナ州生まれ。 4歳からバイクに乗り始め、5歳で初めてレースに参戦。テキサスやルイジアナのダートトラックレースで数多くの勝利を挙げ、「神童」として多くの人に知られることとなる。




1979年にはAMA(全米モーターサイクル協会)の250ccクラスで最年少勝利を記録するとともに、250ccクラスのタイトルを獲得。のちに名コンビとしてともにグランプリを席巻することとなるレーシングメカニックのアーブ・カネモトと出会ったのはこの頃だ。若き天才を巡っては、各メーカーが食指を伸ばすこととなったが、スペンサーが選んだのはホンダだった。80年からホンダはAMAスーパーバイクレースに本格参戦を果たすこととなり、そのライダーに抜擢されたのだ。




翌80年、スペンサーはスーパーバイクで勝利を挙げる。これはホンダにとってもスーパーバイクの初勝利であった。スペンサーはタイトルにこそ届かなかったものの、80年のスーパーバイク選手権でシリーズ3位、81年はエディ・ローソンに次ぐシリーズ2位を獲得。翌年からスペンサーは満を持してヨーロッパに乗り込み、WGPにフル参戦を果たすこととなった。




82年からホンダは新型2ストロークV型3気筒マシン、NS500を投入する。スペンサーはデビュー戦(NS500の初陣でもあった)の予選でポールポジションを獲得し、決勝でも3位表彰台を獲得。シーズン中盤では早くもトップでチェッカーを受けて、下馬評通りの活躍をヨーロッパのファンに見せつけたのである。




83年、スペンサーはヤマハのケニー・ロバーツとWGP史上に残る激戦を繰り広げることとなった。全12戦で争われたシーズンだが、11戦終了時点での戦績はスペンサーが6勝、ロバーツが5勝。ポイント差はわずかに2。最終戦のサンマリノGPでロバーツが優勝しても、スペンサーが2位に入ればスペンサーの初戴冠が決まる。そしてスペンサーは実際のレースで見事にそれをやってのけ、500ccでの最年少チャンピオンとなったのだった。




翌年はホンダがエンジンの下に燃料タンクを置く革新的なマシン、NSR500を投入したが好不調の波が激しく、旧マシンのNS500を急遽引っ張り出すレースも。結局、84シーズンにスペンサーは5戦で優勝(NSR500で3勝、NS500で2勝)したものの、王座はヤマハのローソンに譲り渡すこととなってしまった。




スペンサーは翌85年、その鬱憤を存分に果たすこととなる。オーソドックスなレイアウトに改められた新型NSR500で7勝を挙げて王座に返り咲いただけでなく、250ccクラスにもRS250RWでダブルエントリー。並いる小排気量のスペシャリストたちを物ともせず、7つの勝利とともにタイトルを獲得してみせたのだ。500ccと250ccで同時にチャンピオンとなったのは、スペンサーが最初で最後である。スペンサーはこの偉業を達成後、ある人物から祝電を受け取った。その差出人欄には、ロナルド・レーガン米大統領(当時)の名前があった。




誰もが、今後しばらくはスペンサーの専制時代が続くものと予想していた。しかし、85年の偉業は、スペンサーの体と精神を大きく蝕んでしまっていた。これ以降、スペンサーは怪我との戦いに悩まされることとなる。




500ccに専念した86年は初戦でポールポジションを獲得してレースでも独走体制を築いていたが、終盤で自らマシンを止めてしまった。右手首の怪我(腱鞘炎とも言われた)の症状が悪化し、レースを走り切ることすらできなくなってしまったのだ。87年の途中から参戦を再開したものの、2戦で完走を果たしたのみ。結局、スペンサーは88年シーズンの開幕直前に引退を表明、鈴鹿ので引退のパレードランを行い、WGPを去った…。




と思いきや、89年からはなんとマールボロヤマハチームで現役復帰。しかし、5位に入るのがやっとのスペンサーは途中でチームを離脱。91年と92年にはAMAスーパーバイクに活躍の舞台を移し、1勝ずつを挙げる。92年には鈴鹿8耐にも参戦、型落ちマシンというハンデを抱えながらも予選3位を獲得するなど随所で往年の輝きを放つスペンサーであった。




そして93年、スペンサーは再びWGPの舞台に帰ってくる。ヤマハモーターフランスに加入し、ブルーのつなぎに身を包んだスペンサー。「今度こそ」とファンはその復活に期待をかけたものの、スペンサーは3戦に出場したのみ。2ポイント獲得、ランキング37位という寂しい成績を残して、かつての偉大なチャンピオンはWGPの舞台から姿を消した。




しかし、スペンサーはレースを諦めたわけではなかった。AMAに再び参戦を開始し、95年のラグナセカ戦では後続に23秒もの大差をつけてトップチェッカーを受けるなど、体調が万全ならばその実力が健在であることを故国のファンに見せつけた。しかし、これが彼の最後の勝利となる。スペンサーは96年に公式レースからの引退を再度宣言した。




ところがスペンサーのレーシングヒストリーはまだ終わらなかった。99年には、ホンダからの要請に応えて鈴鹿8耐で復帰を遂げたのだ。ジョン・コシンスキーとペアを組み、RVFで鈴鹿サーキットを攻めるスペンサー。しかし、木曜日の練習走行で転倒し、骨折。ドクター・ストップがかかり、スペンサーは痛みを抱えながら土曜日のスペシャル・ステージを走った後、出場を断念。スペンサーが92年以来の鈴鹿8耐で決勝レースを走ることはかなわなかった...。




スペンサーのレース生活の晩年は、引退と復帰の繰り返しだった。テストやイベントをドタキャンするなど、レース以外では問題児ぶりを発揮することも多かった。しかし、スペンサーの走りを間近で見たレース関係者は、誰もが彼を「天才」と称する。スペンサーの全盛期は短かったが、その一瞬の輝きはあまりに眩いものであった。だからこそ、「ファスト・フレディ」の伝説は、今も多くのバイクファンに語り継がれているのである。

人物写真:山田俊輔

1949年生まれ。山梨県出身。東京写真専門学校(現東京ビジュアルアーツ)を卒業後、アシスタントを経て独立。1978年から鈴鹿8耐、83年からWGPの撮影を開始。また、マン島TTレースには30年近く通い続けたほか、デイトナ200マイルレースも81年に初めて撮影して以来、幾度も足を運んでいる。

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