今から35年前、いすゞ・アスカに搭載され登場を果たしたNAVi5。New Advanced Vehicle with Intelligentの頭文字をとって名付けられた同システムは、先例がなく、概念すら定まっていなかった自動制御に果敢に挑戦した意欲作だった。実現のためにはバイ・ワイヤー技術が不可欠。果たして開発陣はいかにしてNAVi5を仕立て上げたのか。
いすゞ・NAVi5は本当に失敗作だったのか(その1)より続く とはいうものの、NAVi5ははじめからトランスミッションの自動化を目指して生まれたものではなかった。任天堂のファミリーコンピュータが発売され、マイコンという言葉がすっかり一般化した頃、ひとりのエンジニアがマイコンをクルマの自動化にも生かしたいと考えた。このエンジニア・畔柳楯三氏の漠然とした思いに呼応した6名が本来の業務とは別活動のグループを設立したのが、開発のスタート。彼ら7名がマイコンを使ったクルマの自動運転のあり方を探っていったのち、到達したのが冒頭に紹介したコンセプトである。プロジェクト名はずばり「マイコンを利用したマニュアルトランスミッションの超能力感性ロボット運転システム」であった。
MTをベースとしたのは、いすゞがすでにGM/オペル向けも含め多くのユニットを量産していて、得意分野と自負していたからだ。遊星ギヤ式やベルト式CVTも検討の俎上には載ったが実現には至らなかったという。
グループの7人は廃車寸前のいすゞ・ジェミニを入手し、シャシダイナモ上で用いていたペダル/シフト操作のためのエアシリンダーを駆使し、そのジェミニに備え付けた。制御のためのマイコンは、メンバーのひとりが60万円を原資金に秋葉原へ出向き部品を調達、手作りで装置を作り上げた。ひとまず、自動操作のための仕組みは自作と工夫でなんとかしたのである。
装置ができても、その装置に何をさせるかを覚え込ませないといけない。「変速動作とは何か」を問い直す作業が始まった。ところがシフトアップひとつをとってみても、クラッチの断続やシフトノブの操作タイミングなどは十人十色。当然のことながら解析は難航し、プログラム化は困難を極めた。畔柳氏は「この作業で人間の微妙な感覚のすばらしさとそれに従順に対応するメカニズムの素直さにあらためて感心させられたものだ」と振り返っている。ゼロから操作を細かく見直したことが、その後のシステム開発に大きく寄与した。
紆余曲折を経て、どうにか試作車ができあがった。キャビンは乗員の乗り込むスペース以外がすべて機械で埋め尽くされるような有様の改造ジェミニは、少々のトラブルはあったものの自動で変速を成し遂げ、走ったのである。それを聞きつけた当時の前社長・岡本利雄氏が試乗、このプロジェクトは一気に量産化への道を辿ることとなる。1981年の秋のこと、NAVi5の登場までわずか3年しかなかった。