いよいよ秋晴れが楽しめるかな?
太陽黄径180°昼と夜の時間が等しくなり、太陽が真東から昇り真西に沈む日です。『暦便覧』では「陰陽の中分なればなり」とあります。すべての点がきっちりと整うこの日に天界の運行の礼儀正しい美しさを感じます。天文学的には「秋分の日」が秋の始まりとなる季節の変わり目。秋は「冬至」の前日まで続きます。私たちの感覚でもようやく秋を実感できるようになってくる頃ではないでしょうか。正に「暑さ寒さも彼岸まで」のことばがあてはまります。
「秋彼岸」ようやく暑さもおさまりをみせてくる頃
単に「彼岸」といえば『歳時記』では春をさすので、区別をするために「秋彼岸」または「のちの彼岸」としています。
「秋分の日」を中日として前後三日間ずつ、計七日間が「秋の彼岸」となります。この間に寺院や墓所にお参りをし、法会を行う習慣は「春の彼岸」と変わりません。しかし、暗く寒かった冬との別れを喜ぶ明るさを感じる春とは少し違うようです。一番に感じるのは、汗水垂らした大いなる夏を越えての稔りを目前にした充足ではないでしょうか。もうひとつは、一年が終わりへとむかう心寂しさが、天候の変化とともに身にしみてきます。「秋の彼岸」とはそのような時季といえそうです。
〈木洩れ日のまんだら道や秋彼岸〉今井誠人
お彼岸のお供え、お菓子といえばやはり「お萩」です。春には「ぼた餅」とよばれたものが秋には名を変えて現れる。季節を大切に感じようとする日本人の心のありようがうかがえます。
「萩」は秋の七草でも真っ先に挙げられる植物。枝垂れる細い枝にこぼれるように咲く赤紫の花には、美しさだけではない逞しい生命力も感じられます。おばあちゃんやお母さんが作るたっぷりした大きなお萩は、ひとつ食べれば充分満足のいくボリューム。和菓子屋で買う小ぶりの形のよいお萩とは、ひと味ちがうエネルギーがこもっているからかもしれません。
秋の空に燃える「曼珠沙華」
真西に沈む夕日を拝み、極楽浄土を想う風習を「日想観(にっそうかん)」といいます。秋の夕方真っ赤に燃える太陽が沈んでいくさまには、思わず手を合わせたくなる壮大さがあります。
「曼珠沙華」は秋のお彼岸の頃に咲くことから「彼岸花」ともいいます。梵語で「天上に咲く花」の意味をもち、これを見れば自然に悪業から離れることができるともいわれているそうです。朱の勝った濃い赤色の花は雄しべが突出して長く咲くのが特徴です。秋の少しくすんだような青空にむかって真っ直ぐに咲く「曼珠沙華」は秋を彩る花といえます。
〈曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径〉木下利玄
秋の陽ざしでいっそう燃え立つ曼珠沙華が、その先にのびる径の静けさを際立たせます。結核を患っていた作者は花の赤に命の燃焼を託したのかもしれません。
西の彼方にあるといわれる極楽浄土。彼岸の日に亡くなった方をしのび浄土にむかって手を合わせるとき、西日に燃える曼珠沙華はご供養の頼もしい力となることでしょう。
秋の味覚「秋刀魚」の美味しい季節
梨や柿、栗といった果物の美味しさのきわだつ秋ですが、毎年楽しみなのが「秋刀魚」の水揚げのニュースです。豊漁となれば庶民にとっては嬉しい秋の味覚となります。
細長く平たい姿は確かに短刀のような形。背には鈍色の青い筋が光ります。脂が強く焼けばもうもうと立つ煙もまた秋刀魚の味わいのひとつ。塩焼きにしてスダチや柚子といった香りの強い柑橘類の汁をかけ、大根おろしで熱々のところを食べるのが一番でしょうか。
〈秋刀魚焼く煙の中の妻を見に〉山口誓子
〈秋刀魚食ふ月夜の柚子をもいできて〉加藤楸邨
〈秋刀魚焼くだけの七輪五十年〉奥原ゆき子
『俳句歳時記』を読んでみると味わうだけでなく、秋刀魚そのものを素直に楽しんでいる句に出会いワクワクしてきます。秋の食卓に豊かさを運んでくれる魚なのだとあらためて感じます。
焼き上がりを美しくするためのひと工夫として「化粧塩」をしてみるのはいかがでしょう。尾やヒレにたっぷりと塩をすり込み、形を整えて焼くと焦げずに仕上がるそうです。塩の部分が浮き立ちごちそう感も出てきます。
さあ、今年の秋刀魚は豊漁となるのでしょうか? 誰もが気軽に味わえる秋の味覚となって欲しいですね。