時節は寒中。一年でもっとも寒い時期となります。寒冷地では積雪が増え、高山は冠雪します(もっとも今年は、スキー場などでは思うように雪が降らない日が続いているようですが…)。この季節になると、ヨーロッパアルプスの山小屋で、精緻な高山の風景を背景に、農民そして妖しい夢魔を描いた「アルプスの画家」、ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini)を思い出します。セガンティーニは1858年のちょうど今頃の1月15日、北イタリア(当時の所属はオーストリア)のトレント自治県の寒村アルコで生を受けます。その人生も作品も、特異なものでした。
リアル明日のジョーな前半生。異端児セガンティーニを救ったのは絵の才能だった
ジョヴァンニ・セガンティーニ(以下、少年期はジョヴァンニと記載)は商人の父アゴスティーノと母マルゲリータの間に生まれました。アゴスティーノは再婚で、前妻との間の長女イレーネと長男ナポレオーネも共に暮らしていました。ジョヴァンニが3歳のとき、父は長女と長男を連れてミラノに移住、母とジョヴァンニはアルコ村に取り残されたため、極貧の生活を余儀なくされました。3年後、事業立ち上げに失敗した父と姉兄は舞い戻りますが、その1年後ジョヴァンニの最愛の母は病死してしまいます。
後年セガンティーニは亡き母を回顧して「春の入日のように美しかった」と述懐しています。早すぎる離別によって母は理想化され、後年の画業に影響を与えることとなります。
母の死後、父は子どもを置き去りにして家を出、1年後に放浪先で亡くなりました。
幼いジョヴァンニを異母姉のイレーネが面倒を見ますが、イレーネは仕事に行かねばならず、ジョヴァンニは、ほとんどネグレクト状態。やがてイレーネはオーストリア領のアルコから、仕事口を探してミラノにジョヴァンニを連れて移住します。その際オーストリア国籍を放棄したのですが、イタリア国籍を取得しなかったため、姉とジョヴァンニは無国籍となってしまいます。どうもセガンティーニ一族は、社会性に乏しく、ルーズな一面があったようですね。
教育らしい教育も受けずに読み書きも出来なかった13歳の頃には、窃盗の仲間に加わったことから警察に補導され、16歳までミラノの感化院に入所させられます。踏んだり蹴ったり、「おまえは矢吹丈(明日のジョー)か!」とつっこみたくなる少年期を送ったジョヴァンニですが、幼い頃から画才があり、出所後、17歳から画家を志して、ブレラ美術学校(Accademia di Belle Arti di Brera)の夜間部に入学し、昼は画家の助手として働きながら、美術学校で絵の基礎を学びます。
在学中はアカデミズムの権威と伝統を嫌い、自由な表現を追及するスカピリアトゥーラ(Scapigliatura 蓬髪主義)に影響を受け、教授陣の指導にも反抗的だった様子が見てとれます。しかし絵の才能は抜群で、21歳のときに描いた「サンタントーニオ聖堂の聖歌隊席」はミラノ市美術協会に買い取られ、画商ヴィットーレ・グルビシー(Vittore Grubicy de Dragon)との専属契約も成立、順調な画家人生が始まりました。
自由人は導かれるようにアルプスの気圏へ
1880年、22歳のときには生涯の伴侶となるビーチェと出会い、同棲を始めます。セガンティーニには国籍がなく結婚ができなかったためです。これを教会から咎められたことでセガンティーニは苛立ち、ミラノを後にしてイタリア北部の湖沼地帯ブリアンツァ地方のカレッラへ移住してしまいました。
標高374mほどのカレッラ。この地を皮切りに、セガンティーニの「より高い場所」を目指す人生が始まります。ブリアンツァ地方に居住した5年の間に、セガンティーニは3度引越しを行い、最終的には標高800mを超えるカーリオへ、徐々に高地へと住まいを変えていきます。セガンティーニは「私の祖先は山に住んでいた。アルプスの心霊は私の心に伝わり、私はすぐにこれをとらえキャンバスに固定した。」と、アルプス山脈への運命的な愛着を語っています。
画商グルビシーは、この頃セガンティーニに、ミレーの画風を学ぶよう指示、幸運なことに移住した農村では素材となる労働者、農民の姿に事欠きませんでした。制作も、室内から屋外にキャンバスを持ち出しての描画作業が多くなりました。4人の子どもに恵まれ、代表作のひとつ「湖を渡るアヴェ・マリア(Ave Maria a trasbordo)」は1883年、アムステルダム万国博覧会で金賞を受賞。ヨーロッパに「セガンティーニ」の名は知れ渡り、画料も最高ランクにまではねあがります。
私生活はこれ以上なく充実していました。普通ならここで地位にあぐらをかき、助手などを雇って楽に量産するルートに入るところです。しかしセガンティーニは、さらなる高地を求めて、標高1100mのスイス・サヴォニンへと移住するのです。
ただ、これにはルーズで無頓着な生活から州税を滞納して支払えなくなったため、という理由もあったようです。キリスト教徒にもかかわらず4人の子どもたちに洗礼も授けなかったようで、ここまでくると「忘れていた」とか「ついうっかり」ではなく、社会的慣習や決まりごとに縛られること自体が、どうしようもなく苦痛で苦手という、生来の性質としか考えられません。キリストの磔刑図や洗礼図などを描いていることからも、信仰がなかったわけではないのはわかるのですが、世俗(地上)の教会というものへの反発心は強く、より高地をひたすら目指すのは、人間社会の穢れを嫌い、逃れる意味もあったのではないでしょうか。恰幅がよく、端正なマスクに鋭い大きな目、豊かなひげをたくわえていたセガンティーニは、まるで「アルプスの少女ハイジ」の偏屈な世捨て人・アルムオンジの若き日のようにも見えてきます。
輝く画面を獲得したセガンティーニを待ち受けていた山の魔
サヴォニンの澄明で強烈な高地の光は、セガンティーニの画風を大きく転換させました。コローやミレーなどのバルビゾン派に影響を受け、暗めの中間色を多用した画風は、鮮烈で明るい画面へと変化していきました。
アルプス高地の鮮明な色彩と強い陰影、平地の空気遠近法が通用しない遠方までくっきりと見える景観をキャンバスに再現するために、当時フランスで勃興していたスーラらの新印象派による絵画技法、筆触分割による点描技法を応用し、純粋色を細い毛糸のような描線で刺繍のようにつづりあわせて描画していく技法を用い(後にこの技法は分割主義/ディヴィジョニズモと呼ばれるようになります)、純粋色のもつ明度と、分厚く盛った絵の具を微細に重ねていくことで得られるマチエールが織り成す輝きで、アルプスの空気と景観をはじめて描ききった画家となりました。
「編み物をする娘(1888年)」や「アルプスの真昼(1892年)」など、セガンティーニといってまず思い浮かぶさんさんと陽の降り注ぐ牧歌的な作品は、この時代に描かれました。
一方で文学や哲学の書籍を耽読し、その思想をキャンバスにイメージ化した象徴主義的作品もこの頃登場します。凍りついた高山の暗い雪原の精緻な光景を背景に、半裸の若い娘たちが中空数メートルにふわふわと浮いて眠っている幻想的でラファエル前派的な作品は「淫蕩の罰(Il castigo delle lussuriose)」というタイトルが附されています。
家族も、富も、栄光も、全てを手にしたセガンティーニですが、さらに高みを目指し、1894年、サヴォニンから約40km離れたエンガディン地方のマロヤに転居します。マロヤは標高1800mを超える高山地域でした。アルプスの画家としての筆致はさらに冴え渡るようになります。
この地でセガンティーニは畢生の大作「生命」「自然」「死」の三部作に取り掛かります。マロヤからさらに1000m高地のシャーフベルグ(標高2733m)までのぼり、ここに粗末な小屋を立てて制作を始めたのです。41歳になり、脂の乗り切っていたセガンティーニにとっては極寒の中の制作も至福の時間だったことでしょう。ある日、いつものように山小屋に入ったセガンティーニは、強い腹痛を感じていましたが我慢して制作をすすめます。しかし、それは盲腸炎で、熱中している間に腹膜炎を併発して取り返しのつかない病状になり、家人たちが発見したときには既に手遅れになっていました。
横たえられたセガンティーニは最後に「私の山が見たい」とつぶやいて絶命したと伝わります。
縷々つづってきたことですが、セガンティーニには(芸術家にはありがちなことですが)社会性が欠如した側面があり、標高3000メートルに迫る雪山で独り長時間キャンバスを立てて絵筆を執るというのは常軌を逸しています。その異常な情熱がセガンティーニの命を奪うことになったのです。マロヤに転居してからは、セガンティーニはグルビシーとの専属契約を解消し、別の複数の画商との契約に切り替えています。セガンティーニの売り込みや報酬の事務処理、スケジュール管理、社会の動向を伝達して需要のある作品作りを促すなど、グルビシーがいてこそ、非常識人のセガンティーニは画家として成功できたとも言え、もしシャーフベルグでの大作という困難なチャレンジに挑む際、傍にグルビシーがいれば、不慮の出来事の予防措置を講じたのではないかと思え、残念でなりません。
後編では、セガンティーニを特徴付ける唯一無二の幻想絵画にあらわれる象徴性の意味と、「白樺」誌上ではじめて日本に紹介されたセガンティーニがやがて日本詩壇に残るある名詩集を生み出すことになった経緯について、叙述したいと思います。
参照・資料
L'opera completa di Segantini (Classici dell'arte Rizzoli)
アルプスを描いた画家たち (近藤等 東京新聞出版局)
写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Main_Page