立夏を過ぎ、各地で例大祭が執り行われる時期となりました。明日5月15日は京都三大祭りのひとつ「葵祭」が開催されます。かつては「祭りと言えば葵祭」と言われるほどの人気を誇り、『源氏物語』や『枕草子』にもその様子が描かれて今に伝わってきました。「葵祭」と呼ばれるようになったのは近世以降のことで、もとは「賀茂祭」と呼ばれていました。京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう行列は、それぞれの社の前で「社頭の儀」と言われる牽馬・東遊びを行います。その美しさは、『源氏物語』の「車争い」に描かれているように大変人気を誇りました。石清水八幡宮の祭りを南祭、賀茂祭を北祭とも言います。
※東遊び…都より東の地区の風俗歌舞で、平安時代に神社の祭祀に取り入れられ、現在は宮中祭祀の他、上賀茂神社・下鴨神社・八坂神社(以上京都)、春日大社(奈良)、氷川神社(埼玉)、日光東照宮などで奉送されている。
始まりは飢饉を鎮める「神事」だった!
今では美しい行列や衣裳など華やかな部分に注目が集まりますが、その始まりは飢饉を鎮め、五穀豊穣を祈るための神事でした。始まりの時期は諸説ありますが、六世紀・欽明天皇の頃に始まり、平安遷都を機に「勅祭」となったという説が有力です。旧暦四月の第二酉の日に行われていましたが、戦乱による幾度かの中断を経て、明治17年に再開された折に、5月15日に定められました。その後も戦争により行列は中断されましたが、神社での祭儀だけは続けられ、昭和28年に再開され現在に至ります。
祭の主役「斎王代」の意味と役割とは
葵祭では、毎年「斎王代」が選ばれて十二単をまとい行列の主役となります。では、「斎王代」というのはどういう存在でしょうか。「代」とつくことから想像されるように、「斎王の代わり」という意味を持ちます。嵯峨天皇の時代、伊勢神宮にならって、時の内親王が斎王として賀茂神社にお仕えすることになり、その後約400年に渡り斎王制度が続きましたが、承久の乱を機に制度は途絶えました。先にお話しした昭和28年に祭の復活後、「行列を華やかに盛り上げるため、葵祭行列協賛会などの努力で、斎王代を中心にした女人列を加えて今日に至っているのである。」(引用)とあります。斎王代は、毎年民間の未婚の女性から選ばれていますが、華やかさだけでなく、祭儀も行う重要な存在となっています。
葵の葉と「かざしばな」の関係
牛車や斎王代の衣裳に欠かせないものに「葵」があります。「賀茂祭」から「葵祭」に呼び名が変わったのは近世・江戸期と言われていることと関係がありそうです。葵というと、タチアオイの花がこの時期咲いていますが、葵祭の葵は、フタバアオイ(双葉葵・二葉葵)というハート形をした葉を指します。江戸期というと徳川幕府の「葵の御紋」が浮かびますが、徳川家の紋はフタバアオイをモチーフに図案化したものと言われています。また、葵祭の季語の傍題に「かざしばな」があります。漢字で「挿頭花」と書き、祭りでは葵の葉と桂を合わせて飾りますが、江戸時代になってから葵の葉を「挿頭花」としてふんだんに使うようになったことから「葵祭」という呼び名が定着したと言われています。このフタバアオイですが、保存が難しく当日の数日前にいっせいに採取しなくてはならないという貴重品です。近年では環境の変化による自生も難しく、地区の小学生が育てたものが神社に奉納されています。今年は、上賀茂神社に株を植え、来年以降の祭りに使うようになるとか…フタバアオイも葵祭も、ともに末永く続きますように。
出典・その他参考
出典元
・京都新聞 ホームページ「葵祭」特集
・歳時記「夏」 角川学芸出版編
・文化デジタルライブラリー
その他
・当日のスケジュール(昨年の履歴)
京都御所出発(10:30)堺町御門→丸太町通→河原町通(11:00)→下鴨神社到着(11:40)<社頭の儀12:00-14:00>出発(14:20)→下鴨本通→洛北高校前→北大路通→北大路橋→賀茂川堤→上賀茂神社到着(15:30)
※2018年の詳細は当日の朝に特設サイトにて発表(リンク参照)