18世紀の後半から19世紀前半にかけてイギリスで起きた産業革命が一段落して世界中にその余波が広がり始めた19世紀半ば。1859年11月24日、生物学、博物学にとって革命的な著作がリリースされました。チャールズ・ダーウィンによる「種の起源(起原とも)」です。自然選択による生物の進化を体系的に理論づけた初の業績として自然科学界に巨大な足跡を刻む一方、その革命的な理論は人文学全般や社会学、宗教学、政治思想にも影響を与えました。
「血を見るのがいや!」優しい性格がダーウィンを生物学の道に
チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)は、1809年2月12日、イングランドで裕福な上流階級の家庭に生れました。父ロバートは医師で、ダーウィンも医者を目指しましたが、患者の血や外科手術で苦しむ姿を見るのが苦手で学業をサボるようになり、ケンブリッジ大学の神学課程へとコースを変更しました。そこで植物学者のヘンズロー、地質学者のセジウィッグに出会い薫陶を受けて、地質学と生物学への道を歩みだすことになります。
大航海時代以来、ヨーロッパでは博物学が盛んになっていました。世界には自分たちが知らない珍奇奇天烈な生物が五万といることを知り、また地層を掘ると現代では見られない奇妙な生き物の骨格化石が見つかる。これは、聖書に基づく天地創造説、「世界の初め、神があらゆる生き物をデザインして創造した」という神話の信仰への疑念を醸成していきました。当初は「化石で見つかる見たことのない生物は、ノアの箱舟に乗ることのなかった絶滅した生物だ」という説明がなされていましたが、地質学者ライエルの「自然は穏やかに長い時間をかけて変化を蓄積してきた」とする斉一説(せいいつせつ)によりゆらいでいきます。「生き物って天地創造以来変わってないなんてことなくて、実はだんだん変化して新しい種も出来たりしてるんじゃね?」という今では当たり前の考え方は、次第に頑ななヨーロッパ世界の中でも大きくなりつつありました。
こうした中、恩師ヘンズローの紹介で、1831年から1836年にかけてビーグル号による南米大陸の海岸線の地図作成のための探検航海の旅に出ることになったダーウィン。立ち寄ったガラパゴス諸島でイグアナ、ガラパゴスゾウガメ、のちに「ダーウィンフィンチ」と名づけられることになったスズメ目のアトリの近縁種などを観察採集し、生物の環境への適応拡散と形態変化についての具体的な確証例と確信を得ました。
「後から来たのに追い越され」?迷走するダーウィンに決断を促した若き知性ウォレス
ビーグル号の航海を終えたダーウィンは、その知見の成果を元に地質学者としての地位を確立し、やがて「自然選択説(自然淘汰説とも・natural selection)」つまり今で言う「進化論」の基礎研究を深めていきます。
とはいえ、生物学に「進化」(evolution theory)という概念を持ち込んだのは、ダーウィンはダーウィンでも、ダーウィンの祖父であり詩人・哲学者のエラズマス(Erasmus Darwin)でした。さらにそれにさきがけ、生物学という学問そのものの創始者ジャン-バプティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck)が「生物は長い期間の間に必要な形質・機能を発達させ、不要な形質や機能は衰えること、その傾向が親から子へと伝えられる」と提唱し、進化論に先鞭をつけました。
しかし、それらの先人の主張は観察や証拠に基づいた科学ではなく、直観と想像、分類学から類推された「空想」であり、たとえば祖父のエラズマスは、古い学説の前成説(精子もしくは卵子に、人間の雛形があらかじめ入っているとする説)を信じ、精虫の頭部の中に、ホムンクルスのような小人がたたみこまれて入っていると信じていました。それらと決別してダーウィンは確固とした証拠と理念の基づいた体系的な生物進化の概念を「自然選択」という大著としてまとめようとしていたのです。
たとえば遺伝子形質が両親世代から子世代に生殖細胞を通じて受け継がれる、というシステムを既に知っている私たちには理解できることも、メンデルの遺伝の法則すらまだ世に出ていなかったダーウィンの時代には謎だらけで、一体生物が祖先から子孫へ、何をどう介して形質や経験を受け継がせているのか、科学的に説明するのは困難でした。ダーウィンは「ジェミュール」(Gemmules)という物質を想定し、それが体内の各部位で得た情報・経験を蓄積して生殖細胞に送られて子孫に送り込まれる、というシステム「パンゲン説」を唱えてこの問題を説明しようとしました。しかし、その他にも多くの実証を必要とする障壁があり、ダーウィンの研究は難航しました。
そうこう格闘するうち、ダーウィンを敬愛する若き博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace)がアマゾン、東南アジアの探検を通して、ダーウィンとまったく同じ自然選択説にたどりつき、1858年、それをまとめた論文(テルテナ論文)を書簡でダーウィンに送り意見を求めます。
ダーウィンは、自分と同程度かそれ以上に進んだウォレスの卓越した見解と理論に驚愕し、ウォレスの論文を自身の過去の仮説をまとめたエッセイとともにリンネ学会で発表し、長年温めていた学説を正式に世に公表しました。さらに執筆中だった「自然選択」を中断して、その内容をコンパクトにまとめた抄論文を短期間に纏め上げ、1859年11月24日に発表します。これこそが「種の起源」でした。
ダーウィンのこうした一連の行動は、自身の学説を、まったく同じ学説にたどりついたウォレスに先を越されることを恐れたためとも言われ、後年批判を受けることになりますが、庶民出身というハンデが元からあったウォレスがその後人魚の研究や霊魂の研究などオカルティズムに傾倒して信用を失墜させていくことを思えば、ダーウィンという権威があってこそ功績が認められたともいえますし、逆にともすると優柔不断で迷走しがちなダーウィンだけだったらもしかしたらお蔵入りしたかもしれないところを、ウォレスの行動力と強い信念が後押しして、「種の起源」を発表させた、ともいえます。二人の関係は終生親密であったといわれます。
「人間とは何か」政治思想に利用されていく進化論
「種の起源」に書かれた自然選択説、つまり生物が過去から未来、親世代から子世代に向けて、変化変容しつつ種を拡散つせていく、という考え方は、さまざまな社会思想や人間観に影響を与えました。
ダーウィンの理論は、生物の繁殖力(生殖による数の増大)は、環境収容力(ある環境が生物を養える数)よりも上回る。ゆえに、より環境適応した個体が生き残り、適応できなかったものは死んで途絶えていく。つまり生物は常に環境に適応していく、と言うシンプルでニュートラルなもの。この「適者生存」の考えを「強く優れたものが生き残り、弱い劣ったものは絶滅していく」=「強いものが勝ち弱いものが負ける弱肉強食」や「優れたもの同士が生殖をしてより優れた子孫を産み、劣ったもの同士は劣ったもの同士で生殖し、より劣った子孫を産む」といった色付けをして解釈したのは野心的な後の時代の人々でした。
自然の捉え方は常に、その時代の人間にとって都合のいい側面が強調されがちです。植民地時代であり、資本主義、物質文明の隆盛期であった19世紀後半から20世紀前半、ダーウィンの思想は、その社会を肯定して補強するために利用されたのでした。
そのせいでダーウィンもナチスや差別主義者に利用される優生学を肯定し称揚していたように誤解されがちですが、ダーウィンはそもそも生物が「進化」つまりより劣ったものから優れたものへと上昇していく、とは考えていませんでした。適応できたものが優れているとか、できなかったものは劣っていると考えていたわけではなかったのです。
ビーグル号の航海では、ブラジルで奴隷たちがひどい仕打ちを受けているさまを見て、「もう二度とブラジルには行かない」と憤激したことが知られています。
そして「人間」「人類」という存在についてどうとらえるか、はキリスト教社会にとっては世界観をゆるがす大問題です。進化論が孕むもっとも大きな命題は、「人間は動物が適応変化したに過ぎない『裸の猿』なのか、神の叡智と理性を分与された『着衣の天使』なのか」というものでした。宗教的なくびきや迷信から解放され、何もやってはならないことなどない、という資本主義、自由主義の物質文明を謳歌したい人々は「人間は裸の猿である」と強調したがったし、世界の秩序と道徳を信じたい人々は、魂・精神のありかと霊的存在と人間との紐帯を求めてオカルトやスピリチュアルに強烈に傾倒していきました。
この二つの潮流は、ダーウィンの「種の起源」以来、絡み合い、反発しあいながら現代までひきつがれ、人間一人ひとりを、また社会を混乱分裂した状態へと陥らせているといえます。
差別や宗教テロ、ジェノサイドや生態系破壊。現代に生きる私たちが直面している問題は、つきつめれば進化論がつきつけた「人間とは何か」という問いに対する混乱なのかもしれません。