秋は風情のある花が多いもの。「秋の七草」は勿論、ワレモコウ、ツリガネニンジン、リンドウ、ショウマ類、ノギクやタデの仲間などなど…。秋風にそよぐ草花たちの競演から、ふとその根元の地面に目を落とすと、そこには不思議な花が。褐色の細い茎の先に、下向きに筒状の赤紫の花が一輪。葉はまったく見当たりません。キノコかツクシのようにも見えるその植物はナンバンギセル。他の植物の根に着生する寄生植物です。名前も姿も奇妙なこの花は、古くは万葉集で「思ひ草」と謳われた植物。秋の訪れとともに野辺にひっそりと咲き始めます。
物思わしげなナンバンギセル。実はちゃっかり借り物暮らし?
ナンバンギセル(南蛮煙管 Aeginetia indica)は、ハマウツボ科ナンバンギセル属の寄生植物。通常植物が光合成により生成させるでんぷんや酸素を一切作り出さず、すべての養分を宿主の植物から得ている全寄生植物です。日本のほか、広く東アジアから東南アジア、インドまでの温帯から熱帯地域に分布します。ハマウツボ科はそのほとんどが寄生植物で、日本でも本種のほかオニク、ハマウツボやキヨスミウツボ、帰化植物のヤセウツボなどが自生しています。
道の邊(べ)の 尾花が下の 思ひ草 今更になぞ物を思はむ (詠みびと知らず 万葉集巻十 2270)
路傍に生える尾花(ススキ)の足元にある思い草は、今更何を思いわずらっているのだろうか、と万葉集で詠まれた「思ひ草」こそ、ナンバンギセルのことであろう、といわれています。ナンバンギセルはイネ科、特にススキやカゼクサによく寄生するためです。他にもノガリヤス、ササ、ミョウガ、ヤマノイモなど、いずれも単子葉植物に寄生するという特徴を持っています。退化した短い茎は地中にうろこ状の葉とともに埋まっています。地上に出ている褐色の茎のようなものは花柄で、上部先端に大きな赤紫の花を一つつけます。花の形は太い筒型で、唇をとがらせたような愛らしい姿。ややうつむいた角度で咲く姿が、万葉人には物思う姿に見えたのでしょう。花の中には四本の雄しべが、花柱を取り巻いています。蒴果は黒ずんだ卵球状になり、中には10万粒にもなる多量の黄色の細かな種子がつまっていて、風が吹くとほこりのように舞い上がって風に乗り拡散されます。
ナンバンギセルの種子は風に舞って地上に落ちると、近くに宿主の植物がない場合、何十年間も発芽能力を維持したまま休眠しています。宿主の根から発生する特殊な菌性菌を感知すると発芽して、根毛状の巻きひげを伸ばし、宿主の根にふれると球状の塊茎へと生育、養分を吸い取る第一次吸器を分化させ、寄生を開始します。そして数ヵ月後には地上に花茎を伸ばし、次々と花を10月くらいまで咲かせ続けるのです。
宿主にとっては厄介な「間借り人」による借り物暮らしで、あまりに多く寄生されると成長が阻害されることもあるようです。熱帯では、大発生したナンバンギセルは陸稲やサトウキビの大害草として知られています。
紆余曲折の果てに再発見された「本当の思い草」
現代ではほぼ定説として定着している「思ひ草」=ナンバンギセルですが、定説となるには近世から近代にかけて、何の花であるかについてさまざまな説が錯綜していました。
万葉集に歌われる「思ひ草」をナンバンギセルのことだと最初に明確に指摘したのは本居宣長で、著書「玉勝閒(たまかつま)」(1812年刊)十三の卷「おもひ草」の中で「そもゝ此思ひ草といふ草は、いかなる草にか、さだかならぬを(中略)高さ三四寸、あるは五六寸ばかりにて、秋の末に花さくを、其色紫の黒みたるにて、うち見たるは、菫の花に似て、すみれのごと、色のにほひはなし、花さくころは、葉はなし(中略)薄(すすき)の下ならでは、まけども植れども、生ることなし、古の思ひ草もこれにやあらむ」と記しているのが最初で、王朝文化の万葉集・古今集などに歌われた「思ひ草」は、中世以降何の花かがわからなくなっていたようです。
奈良時代の万葉集から室町期までの間に、数々の歌集に「思ひ草」「思草」は読み込まれていて、その数は60首以上があるといわれますが、そのほとんどは鎌倉期や室町期に詠まれた歌。そのロマンチックな響きから、「思ひ草」という言葉は特に中世の歌人たちに好まれたようなのですが、中世に読まれる「思ひ草」は、順徳天皇はツユクサ、九条兼実はシオン、そのほかオミナエシやフジバカマなどなど、それぞれ勝手にコレと思う秋草をあてはめていたようで、とりわけ藤原定家の、
霜結ぶ 尾花がもとの思草 きえなむ後や 色に出づべき (拾遺愚草 巻上)
の歌が晩秋の歌であり、リンドウを指していると解説されたこと、また源頼朝と北条政子の出会いの逸話として、若き頼朝が狩りの折、一人の少女(のちの妻 北条政子)からリンドウを捧げられ、花の名を訊ねると「思い草」と答えたという故事(ちなみに頼朝と政子の少女マンガのようなこの逸話は、江戸時代の創作です)や、江戸期の本草学者・貝原益軒が思い草をリンドウとしたことから、明治時代までの定説は、かなり強固にリンドウのことである、とされてきたのです。
つまり、鎌倉期から江戸時代を通して、ナンバンギセルは思い草とは呼ばれていなかった、ということになります。
では当時はどう呼ばれていたのでしょうか。「きせる草」「ゆうれい草」「おらんだきせる」「竹馬草」などの名が知られています。「きせる草」というのは、16世紀に欧州から煙草と、その喫煙器具であるパイプやキセルがわたってきてからの名でしょう。竹馬草の竹馬とは、長い柄の先に馬の頭に見立てた飾りのついたおもちゃで、ナンバンギセルの姿がそれに似ているため。他にも、東北地方一帯では「かっこーへのこ」(郭公の性器)「べこのきんたま」(つぼみの形から)などのとんでもない名前で呼ばれていたり、九州地方では「よだれくい」というよく意味のわからない命名がされたりしていました。そうした中で、注目されるのは千葉県柏市では古くから「おもいぐさ」と呼ばれていたという事実があります。それは、ナンバンギセルを思い草と呼び習わしていた王朝文化の名残、証拠と考えるべきでしょう。
江戸期を通じてナンバンギセルを思い草だと指摘したのは本居宣長のほか日蘭交流でオランダに日本の生物を紹介した岡林清達・水谷豊文による「物品識名」(1809)において「ヲモヒクサ キセルサウ ナンバンギセル 列當一種」と記された程度で少数派でしたが、明治に入り「思草(おもいぐさ)」の歌集を著した佐佐木信綱や、小説家で園芸通として知られた前田曙山が「曙山園芸」(1911)や「四季の園芸」(1916)などでナンバンギセルと宿主のススキの関係を論じたうえで「思い草はナンバンギセルのことだ」と盛んに指摘したことなどから、次第にそちらが定説となっていきました。
特に曙山はその著書の中で、詳細にナンバンギセルの鉢植え栽培の方法を指南し、「此草が盆栽中に在って花を開くのは、九月下旬から十月であるから、ちょうど秋草の盛の間、併せて此畸形にして風流な花を眺める事ができる」と、栽培鑑賞を推奨しました。
今でも、世界中でナンバンギセルを園芸品種として愛でているのはほぼ日本だけです。
ナンバンギセルはどこで見つかる?
先述したように、ナンバンギセルはイネ科の植物、ススキやカゼクサや、時にミョウガ畑などで見られますが、草丈の小ささもあり、「見たことがない」人が多いのではないでしょうか。かと言って、深山幽谷に行かなければ見られない、というものではなく、農村や自然豊かな郊外の野原などで、もっとも多く出合えます。
また、ススキを目当てに探しても、そう滅多に寄生していることはありません。一面のススキの原のような植生の貧しい場所よりは、どちらかというと滋味の豊かな、肥沃で地中湿度の高い、それでいて日当たりの良い場所を好みます。広めの野原や植生の豊かな斜面のような場所もポイントです。
ともかく、色々な野草の花が豊かに咲きそろっていて、イネ科がその中に混じっているような野原は、見つかる可能性が大。
ちょっうつむいたシャイな姿の変わった花を、この秋見つけてみてはいかがでしょうか。
参考文献
植物の世界17 (朝日新聞社)
とうきょう野の花(安原修次 六興出版)