2017年も半分が過ぎようとしていますが、いまから134年前の1883(明治16)年6月、16歳の正岡子規は松山中学を中退後に上京し、現・開成高校へ入学します。一方、東京都新宿出身の夏目漱石も1883月に神田駿河台の英学塾に入学し、頭角を現します。ともに学業優秀で日本文学の礎を築いた漱石と子規ですが、子規の郷里であり、『坊っちゃん』の舞台でもある松山で、二人が28歳のとき52日間の共同生活を送ったことをご存じでしょうか。今回は、漱石・子規のエピソードとともに、生誕150年記念イベント情報をご紹介しましょう。
22歳で出会った、正岡常規と夏目金之助
言わずと知れた夏目漱石(本名・夏目金之助)と正岡子規(本名・正岡常規)ですが、二人は第一高等中学時代(1889年/22歳)に初めて出会います。
子規が書いた漢詩や俳句などの文集『七草集』を目にした漱石が巻末に漢文で感想を書き、さらには、房総半島を旅した後に漱石がまとめた漢文紀行『木屑録(ぼくせつろく)』に、漱石が子規に批評を求めたことがきっかけとなり意気投合。その後も下宿で哲学、文学、政治などについて議論を重ね、切磋琢磨しあいます。
ちなみに、子規のペンネームのひとつに「漱石」があり、それを漱石が譲り受け「夏目漱石」の名前が誕生したといわれています。
陰のある神経質な性格だった夏目漱石
■夏目漱石(1867〜1916/49歳没)。2016年は「漱石没後100年」の年。
■正岡子規(1867〜1902/34歳没)。2011年は「子規没後110年」の年。
1867年生まれの二人にとって、2017年は「生誕150年記念」の年になるのですが、20代前半で知り合った二人はまたたくまに意気投合したものの、性格は対照的だったといわれています。
●夏目漱石/複雑な生い立ちから形成された「陰のある神経質な性格」という説がよく知られ、高等師範学校(英語教師)を辞職後に留学した英国では、ストレス耐性が低いがゆえに大量吐血した、という記録も残っています。
逆に人情に厚く、周囲を敬う面から後輩・知人に慕われていた漱石は、大学では特待生に選ばれるほど頭脳明晰(ほとんどの教科において首席)で、特に英語力が頭抜けていたため同窓生からは一目置かれる存在でした。
漱石の幼少期にさかのぼれば、名主の家に生まれ豊かな生活を過ごしていたものの、明治維新の混乱とあいまって生家は没落。さらに里子、養子に出された後に9歳の時に養父母が離婚。波乱の子ども時代を過ごすことになった漱石は、成人後ほどなくして長兄、次兄と死別し、翌年には三兄の妻とも死別。相次いで近親者を亡くす中、心に深い傷を受けます。
家族、愛、金銭、孤独を描いた『明暗』。他人も自分も信じられない主人公が苦悩する様を描いた『それから』。幾重の構造で死、友情、裏切り、喪失が描かれる『こころ』など数々の漱石の代表作は、若き日に負った心の傷なくして描かれなかったのかもしれません。
行動的、情熱的、外交的な性格だった正岡子規
●正岡子規/「金銭感覚ゼロ」と友人から揶揄されても気にする素振りも見せず、笑顔を絶やさなかった子規は、行動的、情熱的、外交的な性格であったとされ、このことから漱石とは対照的なタイプだったことがわかります。
また子規は、日本に野球が導入された黎明期に心から野球を愛し、捕手・投手として活躍。しかし、不治の病(当時)とされていた結核を患ったことによって、大好きな野球をやめざるをえなくなります。そして、この時の無念さが、ホトトギスの当て字である「子規」の雅号にあらわれています。
喀血によって自分が結核を病んでいると知った子規は「ホトトギスは血を吐くまで鳴くと言われている。ホトトギスの口が赤いのはそのため」という中国故事になぞらえ、ホトトギスの異称である「子規」を雅号として使用するように……。肺病の発症を機に正岡常規から松岡子規になった後は、病気や困難から逃げることなく風流かつ現実密着型の名句を詠み、病床においても俳句系統をまとめる偉業を黙々とこなし、俳句のいしずえを築いていきます。※文学を通じて野球普及に貢献した子規は、2002年に野球殿堂入りを果たしています。
28歳の二人が共同生活を過ごした、松山での52日間
今から122年前の1895(明治28)年、東京帝国大学を卒業後、愛媛県尋常中学校に英語教師として赴任した漱石は、第一高等中学時代の同窓生であり、新聞「日本」のジャーナリストとして活躍していた子規と、子規の郷里である伊予松山で再会します。
このとき子規は、松山に結核療養のため帰郷していたのですが、二人はまだ28歳。懐かしさも手伝って、二人は52日にわたって漱石の下宿「愚陀佛庵」で共同生活を送ることに……。
結核という肺病を患っている子規に、ぜひとも安静にしてほしいと願う漱石は「無理は禁物だよ」「疲れることは僕が代わりにするから」と忠告するのですが、背中にできた大きな瘤から大量の膿と出血が続くつらさと痛み、そして病魔が着実に体を侵していく恐怖と闘いながらも、子規は漱石の心配をよそに精力的に句を詠んでいきます。そんな子規の好奇心旺盛な様と行動力に影響を受けた漱石は、自らも子規とともに俳句づくりに精進し、数多くの佳作を残すのです。
愛媛県松山市は『坊っちゃん』の舞台でもありますが、『坊っちゃん』は明治39(1906)年に刊行されましたので、二人が再会した年の11年後に世に出たことになります。しかし、二人が共同生活を送った7年後の1902年9月に子規は逝去。『坊っちゃん』を子規が目にすることはありませんでした。きっと漱石は誰よりも子規に、この作品を読んでほしかったことでしょう。