初夏といえども陽差しの強さはからだに堪えます。水分をしっかり摂って体調を気遣う季節になりました。今日は七十二候の第二十三候「紅花栄(べにばなさかう)」です。どんな人の心もふんわりとさせてしまうピンク色もこの紅花が原料。この紅花が盛んに咲く時期、ということでつけられました。実際に咲くのはもう少し先の7月頃ですが、身の回りにある紅花をさがしてみませんか。
手間ひまかけて作り出す「くれない色」
エジプト原産といわれシルクロードを辿り日本に伝わったのは3世紀頃と考えられています。そのころ染料のことを藍とよんでいました。「紅(くれない)」ということばは中国が呉(ご)といわれている時に日本に伝えられたため「呉の藍(くれのあい)」から変化したそうです。あざやかな藍と紅は人々を魅了したことでしょう。
江戸時代には日本全国で栽培されていたようです。山形県最上川流域は肥沃な土で水はけがよく、最上川からのぼる川霧は質のよい紅花を育てる環境をつくっていたそうです。咲き始めは黄色、しだいに赤味を増していく紅花はアザミに似ています。棘が鋭いために染料にする花を摘むのは、朝露で棘が柔らかい早朝に限られるそうです。花の上の方に水に溶ける黄色の色素を、下の方に水に溶けない赤い色素を含んでいます。紅の染料を作るためにはまず水で何度もあらい黄色の染料を出し切らないとならないのです。美しい赤い色を作り出すのはなかなか大変な作業ですね。化学染料の発達にともなって紅花の栽培も廃れてきましたが、紅花は今でも山形県の特産品となっています。
「末摘花」といえば? 美しい色なのに…
茎の先につく花を摘みとることから、紅花は「末摘花」とも呼ばれるようになりました。「末摘花」といって思い出されるのは『源氏物語』に登場する女性のひとりです。美貌の持ち主ばかりが登場する物語のなかで、異彩を放つこの女性を紫式部は「象のように垂れた鼻の先が赤い」と描写しています。ずいぶんと散々ないいようですが、その女性に紅花の名前をつけたのは紫式部のウィットのように思われませんか。
紅花を詠んだのは江戸時代の俳人です。芭蕉『奥の細道』で山形県尾花沢を訪れたのはおよそ7月頃。きっと紅花の盛りの頃だったのでしょう。紅花の句がふたつ残されています。
まゆはきを俤にして紅の花
行く末は誰が肌ふれむ紅の花
江戸時代の化粧といえば、おしろいの白、お歯黒の黒と紅の3色。紅の赤味のあでやかさに芭蕉も心ときめかせたことでしょう。その後もう少し南にさがった山寺立石寺を訪れたとき、有名なあの句「閑かさや岩にしみいる蝉の声」を詠んでいます。
「紅一匁金一匁」金に匹敵する高価なものでした
最上川のほとりで取れた紅花は発酵させて染料の原料となる紅餅に加工されました。染料や化粧紅に生まれかわるためには、栽培から摘み取りさらに加工して紅餅へと、多くの人手と技術が必要でした。美しい色をつくる紅餅は北前船に載せられ京の都や江戸へと運ばれ大きな商いに発展したのです。紅花大尽という大金持ちの商人も現れ、都ではやりの最先端の品々を持ち帰り、華やかな京風文化を楽しんだという歴史がのこっています。それだけの富をもたらした紅花は「紅一匁金一匁」と金と同じくらい高価でめったに手に入らないものだったのです。
江戸時代も後期になるとそんな高価な紅も一般に売られるようになりました。時代劇でよく見かける小間物屋や行商人によって売られたようです。磁器の小さな器に紅を塗り重ね、乾燥させたものが化粧紅でした。今と同じように水を含ませた紅筆で口紅として使っていたようです。浮世絵などでおなじみですね。高価な紅は少しずつしか使えませんが、たっぷりと塗ると玉虫色に光ってみえるのです。唇を玉虫色に光らせるのは「高価な紅をたくさん使えるのよ」という見栄を張る女心でしょう。
化粧の最後の仕上げはやはり口紅。昔も今も変わらない女性の身だしなみであり、心意気ともいえるのではないでしょうか。