お花見やピクニックなど、行楽にぴったりのシーズン到来。お弁当を持ってお出かけした方も多いのではないでしょうか?
お弁当の定番のひとつ「サンドイッチ」。つい先日、受難(?)の報道があったパンですが、そもそも世界のどの国のパンもその国の歴史や文化、気候風土を色濃く反映しているもの。日本のパンもまた、独自の進化を遂げていることは言うまでもありません。
きょう4月12日は「パンの日」。日本を中心に、パンの歩んできた歴史をひも解きます。
国の数だけ歴史あり! 世界の「パン文化」
紀元前8000年前にまで遡れると言われる、人類と穀物の歴史。古代メソポタミアでは、すでに麦の栽培が始まっていたと推定されています。
さらに紀元前4000年前になると、現在のパンの原型にあたるものが作られるようになります。すりつぶした大麦や小麦の粉を水でこね、直火で焼いたこの食品は、「平焼きパン」「無発酵パン」と呼ばれる、現在の中近東などで伝統的に食べられているパンにとても近いものです。
やがて製パン技術は古代ギリシャ・ローマ、中世ヨーロッパへと受け継がれ、さまざまに発展していきます。たとえば、寒冷な気候で小麦の栽培が難しいヨーロッパ北部では、ライ麦を使用したパンが盛んに作られました。また、ヨーロッパの中心として繁栄したオーストリアでは、バターや卵を使ったリッチなパンの製法が開発されます。それが周辺の国々に伝わって、フランスにおけるクロワッサンやブリオッシュ、デンマークのデニッシュに発展したという説があるのです。
日本への「小麦」そして「パン」の伝来時期は?
パンの主要な原料となる「小麦」が日本に伝わったのは、紀元前200年ごろ。いわゆる弥生時代にあたります。
ただし日本には、石窯(オーブン)で調理を行う伝統がほとんどありませんでした。また、粉類の大量生産に欠かせない、回転式のひき臼が伝来した時期もかなり遅かったため、パンが作られることはありませんでした。
そんな日本に、「パン」が初めて伝来するのは16世紀。有名な「鉄砲の伝来」とともにポルトガルからもたらされました。今でも日本語でパンを「パン」と呼ぶのは、ポルトガル語でパンを意味する「pao」の発音にちなんでいます。
伝来はしたものの、日本の食生活に普及することはなかったパンが、にわかに注目されるようになったのは幕末のこと。中国でアヘン戦争が勃発し、諸外国からの脅威を恐れた幕府が、携帯性や保存性にすぐれた兵糧としてパンの製造を命じたのです(この「兵糧パン」が初めて焼き上がったのが4月12日であることが、「パンの日」の由来になっています)。
幕府に続いて、長州藩は「備急餅」、薩摩藩は「蒸餅」、さらに水戸藩では「兵粮餅」など、各藩が次々に兵粮パンの開発に着手していきました。
外国との交流の中で、徐々に花開いた日本の「パン文化」
その後、幕末から明治時代にかけて、日本でも本格的なパンが作られるようになっていったのは、以前「日本におけるロシア文化・ホテルとパン」の回でご紹介したとおりです。
パンの「発酵した匂い」や、パンに添えるバターの「動物性の匂い」は、それまでの日本の食文化にはなかったもの。当初はなかなか馴染めない人が多かったようですが、横浜など居留外国人が多い土地を中心に、パン食の文化は少しずつ広まっていきました。そして「あんパン」「クリームパン」「カレーパン」など、日本の食文化や嗜好に合わせた独自の「パン文化」が誕生していくのです。
さらに、パン普及の追い風になったと言われるのが、1889(明治22)年の「米騒動」です。記録的なお米の不作で、安価な小麦粉を使ったパンが代用食として庶民にも食べられるようになりました。
また、第一次世界大戦(1914~1918年)の後、日本各地の収容所に送られたドイツ人捕虜が、日本におけるパン製造に果たした役割も大きかったようです。捕虜の中にいたパン職人が日本の企業に迎えられ、製パン技術を伝えたというのです。
物資の欠乏に苦しみ、パンも姿を消した第二次世界大戦(1941~1945年)。この戦争が日本の敗戦に終わると、戦勝国アメリカから援助物資として大量の小麦粉が届けられるようになります。学校給食における主食も、コッペパンや食パンなどのパンが主流に。そうして、子どもの頃からパンの味になじんだ世代が増えた1960年代になると、ごはんと同様にパンも「主食」としてとらえられるようになっていったのです。
各地で愛される「ご当地パン」など、いまや日本のパン文化は百花繚乱。諸外国に比べて歴史は浅いかもしれませんが、どこにも負けない(?)多様性で私たちを楽しませてくれています。まだまだ語り足りない、パンのお話。この続きは、またいつかどこかでお話しいたしましょう!
参考:東京製菓学校監修「いちばんくわしいパン事典」(世界文化社)
岡田哲「明治洋食事始め とんかつの誕生」(講談社学術文庫)