各地で桜の開花がはじまる季節がやってきました。お花見の計画を立てている方も多いかと思います。満開の桜は、たとえ毎年見ることができても、いつも特別な瞬間のように感じます。私たちを幸せな気持ちにさせてくれるこの光景は、もしかしたら、あの小さな生きものの恩返しなのかもしれません。そんな想像をさせてくれる詩人・小説家、室生犀星が綴る心に沁み入る言葉をご紹介します。
犀星と「ふるさと」
詩人にして小説家、室生犀星(むろう さいせい、本名: 室生照道(てるみち)、1889年8月1日 〜1962年3月26日)は石川県金沢市に誕生し、生後間もなく真言宗高野山派の寺院である雨宝院の養子となります。犀星が育った雨宝院は金沢市街を流れる犀川の左岸にあり、川辺の景色や上流に見える山並みは犀星の文学的な原風景となりました。雨宝院の庭には、晩年の小説『杏つこ』の題材となった杏子の木が今も残っています。
生母を知らぬ私生児という境遇、裕福とはいえない生活のなかで、犀星は13歳の時にはすでに金沢地方裁判所の給仕として働くようになりました。この職場の上司に金沢の俳壇で名声のある俳人がおり、犀星は毎週のように俳句を添削してもらうようになったのです。犀星の句は次々と新聞に掲載されるようになり、上手くなりすぎた少年は19歳にして老成、句作を中止するに至ります。
もうひとつの犀星にとっての心の拠りどころは、20歳の時に職場に転任願いを出して移り住んだ金石という地です。金沢市街から離れ日本海に面した海岸の町で、犀星は決意をもって「詩人」としての道を歩きはじめるのです。この人里離れた淋しい地は、犀星にとって何もかもが詩の世界として輝き出します。養父母や血の繋がらない兄弟たち、自分の出生の負い目から解き放たれ、砂丘や松林、畠の小径をひとり歩きまわります。そのひと時を詩のなかに書き込む日々は、のちに親友となる詩人、萩原朔太郎の心を動かした代表作『抒情小曲集』として結実するのです。
「詩人の誕生には必ずこういう神話のごとき時間が、本人さえ気づかず存在している。」と、自身も詩人であり小説家の富岡多恵子氏は著書『室生犀星』のなかで記しています。
『抒情小曲集』の冒頭におさめられた連作「小景異情」には、有名なふるさとを詠んだ詩があります。この詩句にあるように、犀星が最後に故郷の地を踏んだのは、すでに確固たる地位を築いた52歳の時でした。その後没するまでの20年間は、犀川の写真を壁に貼って故郷を偲んでいたそうです。
「小景異情 その二」
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
犀星と「朔太郎」
1913年、24歳の犀星は、のちに日本近代詩の父と称される萩原朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年11月1日 〜1942年5月11日)と出会います。北原白秋主宰の詩誌に掲載された「小景異情」に感動した朔太郎が、金沢の犀星に手紙を書いたのです。その手紙をきっかけに、「まるで二人は恋しあふやうな烈しい感情をいつも長い手紙で物語った」(萩原朔太郎『月に吠える』より)。これは、まさに運命の出会い!ところが、実際に会った時のお互いの印象は最悪だったようです。
「僕のイメーヂの室生君は、非常に繊細な神経をもつた青白い魚のやうな美少年の姿であつた。 然るに現実の室生君は、ガツチリした肩を四角に怒らし(中略)非常に粗野で荒々しい感じがした。」(萩原朔太郎 『詩壇に出た頃』 より)
「余りにハイカラな風采であり、人の言ふことを空言のやうに聞く冷淡な感じもないではなかつた。」(室生犀星 『弄獅子(らぬさい)』 より)
医師の息子として生まれ、幼少期より孤独を好み、そのルックスから「プリンス」というあだ名で呼ばれていた朔太郎。一方、取り憑かれたように句作に明け暮れる日々を送っていた犀星は、「歌に痩せて眼鋭き蛙かな」と俳句に詠まれたという逸話が残っています。
最悪だった第一印象を乗り越えて、ふたりは終生の親友として歩んでいくことになります。1925年には、東京・田端に住んでいた犀星の自宅近くに朔太郎が転入。ご近所さんになってからはさらに親しく交流し、朔太郎の第一詩集『月に吠える』と犀星の第一詩集『愛の詩集』は、田端の「感情詩社」(犀星の自宅)より発行され、ともに日本近代詩に残る傑作と称されています。
朔太郎が55歳で世を去った時、犀星は『我友』という小説を書きあげました。そのなかには、朔太郎の死を詠んだ詩が数多くのこされています。深夜まで忌憚ない激論を交わした友、朔太郎を失った犀星は作品を残さずにはいられなったのでしょう。
「去る」
きみが死んでも
やはりあひたいとは思はない、
きみも
ゆめ、あひたいとは思はないであらう。
僕らはわかれてゐた方がいい。
そののぞみはかなつた。
きみは遠くに去つた。
去つたきみには
全くの僕が掻き消えた、
きみは清々するであらう。
僕もなにか清々してゐる。
きみの感情を害はないだけでも。
犀星と「幸福」
最後まで詩人として破天荒な人生を歩んだ朔太郎。一方で犀星は、地に足を着けた生活人として常に詩とともにあり、小説家としても『あにいもうと』『杏つ子』『蜜のあはれ』といったすぐれた作品を残しました。
不遇な出生を乗り越えて生み出された犀星の作品には、故郷の情景に対する深い愛や、小さな生きもの、弱いものへの慈しみの心があふれています。
「春から夏に感じること」
自分は
子供の時代からよく小さな生きものを救うた
水に落ちたものや
生命を害されようとした小鳥などを救うた
そんなとき自分は
「春になつたらお礼に来い
たくさんお礼をもつて来い」
と言つて放してやつた
自分はそんなときに大概美しい気がしてゐた
どんな最微な生きものにも
深い運命をになつた使命があるにちがひない
何かしら天上のものと通じたものを持つ生きものには
きつとその魂に刻まれた愛をかへしに来る時があるにちがひない
自分はいつも然う思ひながら
這ふものを踏むまいとして
きたない道を歩いた
私はいまでも
その心を失せきらないでゐる
目で生きてゐるものを害してはならないと信じる
小さな生きもの一つを救うた日は
きつとよいことがあると信じる
自分の対世間的な激怒の折折に
こんな小さな事にも気がやさしくなる
私が救うた生きものがみな今やつてきて
自分に酬いてゐてくれるにちがひない
そのために今自分は幸福であるのにちがひない
このやうに心が平和であるのにちがひない。
(『寂しき都会』より)
参考文献
福永武彦・編『室生犀星詩集』新潮文庫 1968
富岡多恵子『室生犀星』筑摩書房 1994