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オリンピック選手の育て方


今回、tenki.jpチームは、2002年に開催されたソルトレイク五輪スノーボード女子ハーフパイプ日本代表橋本通代さんに、「オリンピック選手の育て方」についてコラムをご執筆いただきました。

右側が今回の執筆者である橋本通代さん

右側が今回の執筆者である橋本通代さん


オリンピック選手育成に王道はない。

「オリンピックに出るには、どうしたらいいですか?」ここまで単刀直入な方はいらっしゃいませんが、スノーボード選手からよく受ける質問です。

オリンピックまでの道のりは、意外とシンプルなので、各団体の説明から、順序なども、すぐにご案内できます。ここでも簡単にご説明すると、まずはオリンピックの窓口である全日本スキー連盟公認の各エリアにあるクラブに入会し、全日本大会などで定められた基準をクリアすれば、強化指定選手になることができます。そして世界大会出場の切符を手に入れた後は、世界大会で定められた基準をクリアし、更に様々な団体から承認された後、オリンピックに出場することができます。

このようにルートはシンプルですが、難しいのはどのようにアプローチするかですよね。ここで重要な力は、情報収集力とネットワークだと思います。どこで練習し、どの大会に出て、どのタイミングで海外に出るかなど、いい選択をするためには情報が必要で、情報収集のためにはネットワークが必要です。これはオリンピックに限らないと思いますが、絶対にかなえたい目標があるならば、とにかくがむしゃらに情報収集することが大事だと思います。

では技術的にはどうか。ここに関しては厳しいようですが、誰よりもうまい、日本一は当たり前です。世界大会で常に表彰台に立つことも当たり前です。そのための努力も当たり前です。人と違う目的があるのなら、人と違う努力が必要です。

2列目左から2番目が橋本通代さん

2列目左から2番目が橋本通代さん


自分がオリンピック選手になれた理由

数えきれないほどたくさんの方にお世話になってきましたが、やはり一番重要なキーは「自分」でした。私はだいぶと変わった子で、中学の頃、真剣に「自分探し」をしました。急に「本当の幸福って何だろう・・・」と思い始めたんです。来る日も来る日もその答えを考えました。そこでたどり着いた答えは、「人は一人一人違うから、幸福も違う。自分の幸福は自分の心が決める。だからまず、自分を知らないと。」と。

それがわかってからは、毎日とにかく自分を見つめ、自分を発見していくのが楽しくて仕方ありませんでした。好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なことなど。それがわかると次は、自分だからできることを探したくなり、選択肢を増やすために、外の世界を見たくなりました。高校時代はバイトに熱中。大学生、社会人、たくさん人と話し、選択肢を増やしました。自分が何よりも大好きになれることは何か、夢中で探しているうちに出会ったのがスキーでした。そこからスキー、スノーボードとつながっていくのですが、今の私があるのは、中学の頃しっかり自分を見つめたことで、「自分」をよく知ったことがとても重要だったと思います。

大学時代はスキーに熱中。「スキーで有名になる」と決めて、大学卒業後お金を貯めて24歳の時にカナダ・ウィスラーへ。エクストリームの大会に出て一躍有名になることを夢見ていたのですが、ホームスティ先の人からスノーボードを薦めらたことや、いろんな理由が重なって、3日後にはスノーボードに転向。24歳から転向するのだから、有名になるだけでなく、世界に通用するスノーボーダーになることを目標にしてスタートしました。時間がない。だから順序どおりになんてできない。順番関係なしに、常に自分で選択して突き進みました。

できる限りの最短コースを行くために、もちろん情報収集は欠かしませんでした。夜のアルバイト中に欠かさず復習と予習。毎日の練習時間を効率よくするために、常にスノーボード日記を持ち歩きました。スノーボードを始めて3週間後にはハーフパイプやジャンプに挑戦、3か月後にはウィスラーの草大会に挑戦。プロに混ざって、3週連続3位になりました。

半年後の夏には撮影してもらう機会を得て、アップカマーとしてスノーボード専門誌に取り上げてもらい、その秋にショップを通じて、BURTON関西にサポートしてもらえることになりました。2年目はまずプロ資格を取得するために国内のベースとして白馬を選び、岩岳スノーボードスクールでスノーボードの基礎を一から教えていただき、全日本スキー連盟やオリンピックの情報をたくさん教えていただきました。岩岳2年目、スノーボード3年目、インストラクターとしてお手伝いさせていただきながら、どの大会に出るのが一番効率がよいかを教えていただき、シーズンで国内レースに4戦出場。4戦とも全て表彰台に乗ることができ、ナショナルチーム入りを果たしました。

最初から世界を目標にしていた私にとって、国内でトップになることは通過点であり、オリンピックに出ることも当たり前と思っていました。オリンピックに出ることが重要なのではなく、世界で勝つことが重要だと思っていました。かなり生意気で気の強いライダーだったと思いますが、本当にそう思っていました。

ただ、ここからが大変でした。スノーボード歴3年の私の前に立ちはだかった壁は、ワールドカップ転戦費用の問題でした。世界への夢をあきらめることも仕方ないと思える状況の中、地元寝屋川市(大阪府)の方が後援会を作って下さりました。雪のない寝屋川で、しかもスノーボード歴たった3年の私の夢をたくさんの方が応援して下さり、ワールドカップのスタート台に立つことができました。

まだ転戦費用が集まりきれていないまま11月になり、自分も必死でアルバイトをしながら、転戦費用集めにまわっていた頃、初めてお会いした社長が「あんたは1点だけを見つめている。1点を見つめている人は必ず成功する」そう言って寄付金を私の手にしっかりと乗せてくれました。その時の重みは一生忘れません。

ワールドカップ初参戦のシーズンでは表彰台2回、世界ランキング6位という成績を収めることができ、ナショナルチームA指定選手となり、その2年後にオリンピックに出場することができました。

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