「ララ物資」という言葉を、聞いたことがありますか?
第二次大戦の直後、貧困と飢えに日本が苦しんでいた時代に、アメリカで結成されたのがララ(LARA、アジア救援公認団体)。民族や宗教などの枠組みを超えて結成された「ララ」は、食料や衣料品などの救援物資を日本に送り届け、多くの人びとを救いました。
その物資による初めての給食が実施されたのが、1947年1月20日。今からちょうど70年前のことなのです。
節目の年にあたり、「ララ」が果たした役割を振り返ります。
「ララ」とは、どんな団体だった?
ララ(LARA)とは、「Licensed Agencies of Relief in Asia」の略称。
アメリカの労働団体をはじめ、キリスト教系の宗教団体などの民間13団体が集まって結成された、救援活動組織です。
「国や宗教、人種を問わず、人は神の子である」
ララが打ち出したのは、こうした方針です。そして、沖縄を含む日本全国や、朝鮮半島で活動を展開していきました。
当時の日本は、敗戦直後の混乱期。
インフラの混乱や焼失により、極端な物資不足、とくに食料の不足に多くの人が苦しんでいました。生鮮食品など、多くの品々が政府によって規制され、人びとは「ヤミ市」で禁制品を買うことで物資の欠乏を満たしていたのです。
ララは全米から資金を募り、多くのアメリカ人がそれに応じました。
集まった資金で購入された食料や、古着などが船で日本に運ばれ、さらに各地へ送られて、人びとを飢えと寒さから救ったと伝えられています。
在米の日本人、日系アメリカ人が活躍
ララの活動で忘れてはならないのは、アメリカ在住の日本人や、日系アメリカ人のコミュニティの協力です。
そもそもララの母体となったのは、1946年1月に日系人が中心になって設立した「日本難民救済会」。
この団体がララに発展し、アメリカ政府やGHQによって民間の救援活動組織として一本化された経緯があるのです。
現代と違って、当時はインターネットなどで気軽に情報をシェアすることができない時代です。
アメリカ西海岸をはじめ、ハワイ、ニューヨーク、シカゴなどで、「日本語新聞」が情報を収集・集約する役割を担いました。
そして、祖国の窮状に心を痛める多くの人びとが「何かできることを」と精力的に活動したといいます。
現代にも通じる、ララの果たした役割
「ララ物資」の第1弾が横浜港に到着したのは、1946年11月30日。ミルクや米粉、バター、衣類などが、文字通り徹夜で荷揚げされたといいます。
そして、その後も数年にわたり、大量の物資が届き続けました。
学校給食にララ物資が初めて使われたのは、すでに述べたとおり1947年1月のこと。そのメニューは缶詰を使ったスープでした。ちょうど寒い時期でもあり、多くの子どもたちのおなかと心を満たしたのです。
日本人や日系アメリカ人の活躍が大きかった「ララ」の活動。とはいえ、彼らが集めた資金や物資は全体の2割程度だったと伝えられます。多くのアメリカ人が、つい前年まで交戦状態にあった日本に対して、支援の手をさしのべました。
もちろん、すべての人がララの活動に賛成したとは限りません。しかし、ララの活動があった事実は、これからの国際協力や人道支援を考える上で、何らかのヒントになるようにも思えます。
現在でも横浜には、この「ララ物資」にまつわる史跡が残っています。
興味がある方はぜひ調べていただき、かつて日本が貧しかった時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考:田村紀雄「海外の日本語メディア 変わりゆく日本町と日系人」(世界思想社)