新年まで残りわずかとなりました。みなさんは2017年のカレンダーの準備はできていますか?この季節から並び始める色とりどりのカレンダーに、来年への期待を膨らます人たちも多いのではないのでしょうか。
私たちが日頃使用しているカレンダーは、「グレゴリオ暦」を用いて作成されています。世界標準として使われているグレゴリオ暦ですが、一般化されるまでには多くの歴史が積み重なっていました。
今回は、そんな「暦」の歴史についてご紹介します。
太陰暦:バビロニア帝国の僧侶が発見した「月の満ち欠けの周期」
私たちが日頃から使っているカレンダーは、「グレゴリオ暦」という暦法によって作られています。しかしこの暦法が一般的に用いられるまでには、多くの紆余曲折があったのです。
暦が用いられるようになったのは、古代バビロニア帝国の僧侶たちの発見がきっかけとなっています。彼らは毎晩夜空を見上げる中で、ある発見をしました。「月の満ち欠けが一定の周期をたどる」ということです。これをきっかけに、月の満ち欠けを利用した「太陰暦」という暦が発明されました。
バビロニアの僧侶たちがこの発見をした頃、日本は縄文時代。暦はそんなにも昔に登場していたんですね。
太陰太陽暦:8月なのに冬の寒さ?太陰暦の弱点
月の満ち欠けの周期に基づいて発明された太陰暦ですが、この暦法には一つの弱点がありました。というのも、太陰暦では1年が354日。地球が太陽の周りを1周する365日という周期とズレてしまうのです。この11日のズレはバカにできません。3年もすれば約1カ月のズレが生じます。そのため、何の調整もせずに太陰暦を使用していると「8月なのに冬の寒さ!」なんていうことになってしまうのです。
この問題を解決するために発明されたのが、「太陰太陽暦」です。3年に一度13カ月ある年を作ることで、3年ごとに生じる1カ月のズレを調整することにしたのです。
この暦法は後に中国へ伝来し、日本に伝えられることとなりました。
日本書紀に記された、暦博士の渡来
日本に暦が伝来したのは、6世紀から7世紀頃と言われています。
日本書紀には、暦を作成するために欽明天皇が百済から「暦博士」を招こうとしていたことが記されています。暦博士とは律令制の官職の一つで、暦の作成は暦博士によって行われていました。暦を作成するための理論や計算を研究する「暦学」という学問が伝えられたのは、後の推古天皇の時代。その時に渡来した暦博士によって伝えられたのが「太陰太陽暦」です。
今となっては私たちの生活から切っては切れないものとなっている暦ですが、暦が一般化していなかった時代にはどのような時間が流れていたのでしょうか。ちょっと想像がつきませんね。
グレゴリオ暦が使用開始された12月3日は「カレンダーの日」
日本に太陰太陽暦が伝えられてから、中国暦や西洋暦なども参考にしながら様々な暦が作成されました。その中の一つである天保暦は、それまで実施された太陰太陽暦の中で最も精密であったと言われています。
天保暦でいうところの明治5年11月9日、改暦が決定されました。グレゴリオ暦の使用することが決まったのです。諸外国と足並みをそろえるためとか、政府が13カ月分の給料が払えないほどの財政難に陥っていたなど、改暦には様々な理由があったようです。そして実際に改暦が施行されたのは、決定から23日後の12月3日。急な改暦に、日本では大きな混乱が生じたそうです。たしかに「1カ月後に改暦するよ」と言われたら、「仕事の締切は?」「来月の旅行の予定は?」なんて困ってしまいますよね。
ともあれ、グレゴリオ暦がすっかり馴染んだ昭和63年、全国団扇扇子カレンダー協議会によって12月3日が「カレンダーの日」とされたのです。