
<高校野球西東京大会:日大三8-4東海大菅生>◇29日◇決勝◇神宮
4年ぶりの凱歌(がいか)とはならなかったが、地元石川から駆けつけた家族に快音を響かせた。東海大菅生の小上防登生(こじょぼう・とおい)内野手(3年)は昨年1月1日、最大震度7を観測した能登半島地震で被災した。
年末年始で寮からの帰省中、輪島市の祖母・博子さん(78)の家を訪れた時だった。母と兄の3人で本屋に出かけていたところ「めっちゃ揺れた」。棚にあった書籍やCDが一気になだれ込んできたという。
地震が収まった後は「かろうじて携帯が使えた」と父や祖母と連絡を取りながら、帰宅した。しかし、木造2階建ての博子さんの自宅は全壊していた。
「正直、焦った」
混雑した避難所を避け、自宅前の車庫で2日間ほど過ごした。しかし、この時期の輪島市内の気温は0度近かったという。避難中の近所から石油ストーブや灯油を譲ってもらい、がれきからはソファや布団を引っ張り出して暖をとった。
過酷な避難生活は「寒さよりも正直、余震がずっと揺れていた状況で、いつまた何があるか分からない。そこの怖さがあった」と小上防。それでも、家族の命を守るために恐怖心に打ち勝ち、最低限の環境を整えてきた。博子さんも「もともとは活発な男の子。でも、力がついて、壊れた家で私たちが怖くて入れなくても、何度も物を出して住めるように場所を作ってくれた。本当に頼もしくなった」と成長を実感していた。
現在、博子さんは仮設住宅生活を送る。自宅のあった場所も更地となっており、今年4月から再建が始まったばかり。復興への一途をたどる中、大会屈指のリードオフマンは2本の二塁打を放ち、故郷へ元気な姿を見せた。
4年ぶりの夏の甲子園切符こそ逃したが、神宮を駆け回った愛孫には博子さんも「これがきっとこれからの人生の糧になる」とエールを送った。涙目の左打者は最後にこう言った。「本当にかっこいい姿を見せられてよかった。いずれはプロになって恩返ししたい」。これからも小上防家の絆を深めていく。【泉光太郎】