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元中日監督与田剛氏、半年でドラフト1位に上り詰めた社会人時代を回顧 ターニングポイント明かす


元中日監督の与田剛氏がNTT東京に入社し、社会人野球からプロ入りするまでの経緯について語った。大学時代はわずか1勝しか上げられず、プロ野球からのオファーもなかったが、社会人野球のNTT東京へ加入することになった。スリークオーターへのフォーム変更が転機となり、球速がアップし、周囲の評価も一変。1年目はスタンドで応援するのみだったが、2年目にはドラフト候補に急成長し、最終的には中日にドラフト1位で入団した。その背景には周囲からの助けがあったことを強調している。

与田剛氏(2021年撮影)

巨人、レッドソックスなどで活躍した上原浩治氏(50=日刊スポーツ評論家)が16日までに公式YouTubeチャンネル「上原浩治の雑談魂」を更新し、元中日監督の与田剛氏(59)とのコラボ動画をアップした。司会進行はPL学園(大阪)出身で立大野球部OBの上重聡アナウンサー(45)が務めた。

2人はNPBの現役時代がかぶっている99年~00年こそ接点はなかったが、与田氏は「解説者の立場で取材をさせてもらったりとか、上原くんの活躍をテレビで応援していました」と10歳年下である上原氏との関係性を説明した。

動画内では、当時から大学野球界で厳しいと評判だった与田氏の母校亜大に入ったきっかけや、衝撃エピソードが明かされた。

NTT東京から89年ドラフト1位で中日に入団した与田氏だが、亜大では4年間で通算1勝のみ。主に大学時代はスタンドで過ごしたが、大学卒業後も野球継続を決意した背景を語った。

与田氏は唯一、地元千葉県の軟式野球部を持った企業チームからオファーが届いたという。大学時代に父を亡くしていたため、地元の安定した有名銀行に就職できるということで母はオファーに喜んでいた。だが与田氏は「若さなんですかね。おれはまだやれる」と本格的な野球への情熱は冷めず、唯一もらったオファーを断ったという。

これに監督は「どうするんだ」と問い詰めるも「なんとかします」と与田氏。当時を「とんでもない勘違い男だった」と笑顔で振り返ったが周りの助けもあり、都市対抗野球にも出場する強豪企業のNTT東京への就職をかなえた。

その背景については当時の総監督が他界したため、真相について確証は得られないとしたが、亜大2年時に社会人との練習試合で好投しており、それを当時のNTT東京の監督が見ていたという。当時を「多分いろんな方が頭を下げて『コイツなんとかしてやってくれ、就職先がなくなったんだよ』っていう話をしてくださったと思うんですよ」と推測。「そういう助けをいただいて、硬式野球を続けられた」と周りに支えられながらの入部背景を振り返った。

社会人1年目はスタンドで応援。2年目に一気にドラフト候補へ成長し、ドラフト1位で中日に入団した。

ターニングポイントとなった時期に、都市対抗にも出られなかった入社1年目の夏を挙げた。当時の監督に「腕の位置を気にせずキャッチボール、遠投をしばらくやってみよう」と助言をもらった。小中高大では上からたたき降ろすような投球フォームを続けていたが「なんか合わないな」とも感じていた。それから下手投げをまねしたり2カ月ほどあらゆる角度を試してハマったのがスリークオーターだった。

今まで見てきた好投手は、ボールが指から離れた瞬間「ピチッ」という音が鳴ったという。一方で、自身は1度もその感覚を得た経験がなかった。スリークオーターに変えてから「『ピッ』くらいはするようになったんですよ」と説明。継続すると、これまで聞いてきた「ピチッ」という音が鳴るようになったという。球速は4~5キロアップし、球を受けた捕手の先輩も「おい剛どうした。なんだこの球は」と変化に気づくようになった。

それから社会人2年目の春に日本代表候補合宿に招集されると、元ヤクルトの古田敦也氏(59)、元ドジャースの野茂英雄氏(56)、西武のシニアアドバイザー潮崎哲也氏(56)らスター選手とも対面し、刺激を受けた。

あっという間にドラフト候補に上り詰め、上原氏も「何段飛ばしした?ってくらいドーンっていきましたね」と驚き。与田氏も「半年ぐらいでガラっと野球の舞台が変わりました」と振り返った。

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