
「私と長嶋さん」<4>
長嶋茂雄さんは多くのファンに愛されました。それぞれの人たちが心に抱く、長嶋さんの思い出を紹介します。
フリーアナウンサー徳光和夫さん(84)は、人生の進路を長嶋茂雄さんで決めてきた。後輩になりたいから立大へ。会いたいから日本テレビへ。個人的に付き合いが生まれたのは、長嶋監督解任を伝えた「ズームイン!!朝!」から。「一ファン」として、尽きない思い出を語った。
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徳光さんは、人生を懸けて長嶋さんを追いかけた。海城高2年の秋、立大・長嶋の東京6大学新記録となる通算8号を見た。「二塁を回って小躍りするような感じです。三塁コーチの選手と肩を組むようにホームに。僕も若くて、感性を刺激されちゃいまして」。学力は足りなくとも、どうしても後輩になりたくなった。立大4学部を受け、入試でヤマが当たった社会学部に補欠で合格した。
立大の放送研究会をへて「長嶋さんに会いたい」という一心で、父が務めていた日本テレビのアナウンサーになった。当然、野球担当を希望したが、プロレス担当に。新人時代、ミユキ野球教室であいさつするのが精いっぱい。74年の引退試合は「紅白歌のベストテン」のリハーサルをすっぽかし、ファンとして後楽園球場のバックネット裏にいた。444号本塁打に涙した。試合後、囲んでいたカメラマンに「お前らどけ、邪魔だ」と罵声を浴びせたら、世話になっている日本テレビの先輩だったという。
個人的に知り合った転機は、司会を務めた「ズームイン!!朝!」だった。80年、長嶋監督が解任され、頭に血が上り「読売新聞は読まない。報知新聞は取らない」と話した。グループ企業の一員としては、あるまじき発言。心配した長嶋さんから食事に誘われた。「何かあった時には相談に乗るよと言ってくれた」。ここから、財界人も含めて付き合いが始まった。
5歳上の長嶋さんのプレーは、今も目に焼き付く。「守備も好きでした。ショートゴロはいつも捕っていた。『二塁の土屋さんのゴロは3回捕りましたね』と言ったら『ふふふ。ファーストゴロは2回です』と言ってました」。ファンに躍動感を与えるためだったという。
「ファンのため」を個人的に体感したのは、名球会でオーストラリアに行った時のこと。地元チームとの試合で、参加選手には用具メーカーから新品のグラブやスパイクが配布された。しかし、長嶋さんは「慣れたグラブとスパイクじゃないと見せられません」と、1人だけ日本から持参した用具で試合に臨んだという。監督就任後もファンが描く体形を維持するため、腹筋やランニングを欠かさず、亜希子夫人から「洋服のサイズが変わらない」と聞いたという。
最後に話したのは昨年8月。立大のモニュメントに後輩たちへの言葉を刻むため了承をもらう手紙を出したところ、返信に電話があった。言語は不明瞭だったが「阿部は面白いよ。いいよ。ジャイアンツで初めて捕手の監督だから」とさかんに言っていたという。
ほぼ同世代を生きてきた。「ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球であったけど、僕にとってはミスター昭和。昭和の太陽が千の風になった。私の中では死んではいない」。BGMには立大時代は北島三郎、現役時代はサザンオールスターズ、監督時代は矢沢永吉のバラード、今は秋川雅史が似合うという。そして「投手には沢村賞がある。年間で一番熱いプレーをした選手へ、記者投票で長嶋賞を設けてほしい」と熱望した。【斎藤直樹】