
巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さんが3日に肺炎のため、89歳で亡くなった。巨人監督としての最終年となった2001年の采配を振り返ります。
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巨人長嶋茂雄監督(65)は第1期、第2期を通じて球団史上最長の15年間指揮を執った。リーグ優勝に5度、日本一に2度チームを導いたが、負けた時の落差も大きかった。ただ、勝っても負けても常に話題を提供しファンの関心を引き続けた監督でもあった。現役時代から培った「カリスマ性」で、ほかの監督にはまねのできない采配で、指導者としても「記憶に残る」監督だった。(※2001年9月29日掲載。肩書は当時)
今シーズン前半戦最後の大阪遠征の時だった。阪神との第1戦、長嶋監督は終盤の好機に、チームの打点王清原に送りバントを命じた。結果は裏目に出て、試合は惜敗。翌7月18日、宿舎でのミーティングで選手にこう言った。「あのサインはおれにしか出せない。ほかの監督だったら絶対に出せない」。リスクと表裏一体の長嶋野球のすごさ、神髄は、この出来事に集約されている。
最大の特徴は「カリスマ采配」にあった。現役時代の卓越した技術、精神力、そしてファンの視線を常に意識するサービス精神は、指揮官になっても変わらなかった。投手を交代させたあと「マウンド上で逆風が吹いているのが見えましたから」と真顔で話したりした。体験、経験に蓄積された「イメージのデータ」が答えを瞬時にはじき出すからだった。
打てない、抑えられないと感じた時の采配は非情だった。原ヘッドコーチの選手晩年には、好機で代打を送った。「4番を長く務めた原さんでも代打を出される」と選手の間に緊張感をもたせ、反発力をチーム全体のエネルギーに転化させようとした。ほかの監督が同じ事をすれば、チームは崩壊しかねない。偉大なプレーヤー「長嶋茂雄」でしかできない芸当だ。
ただ、だからこそ、ファンを熱狂させる勝ち方もできる。どういう勝ち方がファンを喜ばせるか、どういう采配が新しいドラマを生むか、計算しながらシナリオを作っていく。清原がバントを成功させて勝てば普通の勝ち方よりドラマチックになり、もし失敗に終わっても、屈辱をはね返そうとする清原の次の機会にまたドラマが生まれる。
ヤクルトとの最後の直接対決を含む6連戦で、斎藤雅、桑田のベテランに4連投、5連投を強いた。勝負どころでのプロとしての戦い方を選手に示した。屈辱の代打を出され、悔し涙を流した原は、コーチとしてグラウンドに戻ってきた時こう話した。「貴重でいい経験をしたと、心の底から思うよ。控え選手の気持ちがよく分かったし、監督の狙いも今は理解できる」。
理想の勝ち方は常々「10-0」と話していた。打線が爆発し、投手が完ぺきに抑える。しかし、その中身はドラマに彩られ、輝きを放っていないと、プロとして一流ではない。長嶋監督は希代のシナリオライターであり、演出家だった。【沢田啓太郎】
◇記録で振り返るミスターの歴史◇
◆57年11月3日(立大時代、最終戦の慶大戦で新記録の8号本塁打を放ち)「最後のチャンスを生かすことができました。今になって思いますね、私はやはりラッキーボーイだった、と」
◆57年11月5日(プロ入りを前に)「卒業したら巨人に入りたい。伝統に輝く巨人を慕っています」
◆58年4月5日(デビュー戦で国鉄金田に4打席連続三振を喫し)「ごらんの通りのありさまですよ。今日は全然ダメでした」
◆60年10月(政治への関心を聞かれ)「(新聞の)政治面? ええ、ザッと目を通しますよ。世の中が騒がしくなってから読み始めました。ただ、どうでしょう。スポーツマンというのは保守的ですからね。社会党が政権を取ったら野球、野球って騒いでいられなくなるんじゃないですか」
◆61年3月(米国ベロビーチキャンプ中に)「アメリカの子供は英語がうまいね」
◆63年10月6日(5毛差で首位打者をキープし)「『毛』の争いなら任せておいてよ。何しろぼくは胸毛に自信あるから」
◆64年11月26日(亜希子夫人との婚約発表会見で)「最初に会った時から好きになりました。恋なんて分からなかったが、どういう気持ちになるのかやっと分かりました」
◆73年10月9日(川上監督から監督を打診され)「バットマンとして燃え尽きるまでやるのがぼくの務めです。体が続く限りバットを持ちたいんです」
◆74年10月12日(引退決意)「ちいさな白い球との長い戦いが終わったことを知りました」
◆74年10月14日(後楽園球場での引退セレモニーで)「私はきょうここに引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」
◆74年11月1日(巨人監督に決まり、背番号も90に)「息子の一茂が3番、三塁、背番号3だったから全部足して9、それに0を付けた90がいい、と言うんですよ」
◆74年11月21日(監督就任会見で)「来年はひとつ、クリーンベースボールのキャッチフレーズで」
◆75年4月8日(広島戦で監督初勝利)「現役時代、ホームランを打ったときでもこんなうれしさはなかった。監督みょうりに尽きる」
◆76年8月17日(広島戦で監督100勝)「きょうの勝ちは大きい。これでチームのアクが抜ける」
◆76年10月16日(初優勝の胴上げについて)「文字通り、宙に舞うような気分でした」
◆80年10月21日(巨人監督を解任されて会見)「フロント入りを要請されましたが、お引き受けできません。しばらく自分の足元を直視して反省を加え、これからの人生を考えてみたいと思います」
◆91年8月26日(浪人中に世界陸上をリポート。100メートル決勝で世界新を出したカール・ルイスについて)「新幹線が通り過ぎて行ったかと思った」
◆92年10月12日(2度目の監督就任会見で)「今までの環境から見れば大変な戦いの場に入るわけですから。巨人の再建に心血をそそごうと、そういう結論に達しまして」
◆92年11月21日(ドラフト会議で星稜・松井を引き当て)「(くじを)オープンしまして『選択確定』の文字が出たときに、思わずうれしくなって」
◆92年12月18日(息子でヤクルトの一茂の巨人移籍が決まり)「(一茂には)親子という関係を抜きにして、より厳しくあたらなければいけない」
◆94年4月29日(連夜の1点差勝利に)「う~ん、タッチの差でしたね。水泳でいえばバサロで逃げ切り、これですよ」
◆94年5月11日(危険球が原因でヤクルト戦で大乱闘へ)「うちだって、やられたら黙ってません。目には目を、です」
◆94年8月18日(マジック25の点灯に)「マジックはマジックの世界ですからねえ。ところで消えないマジックってないの?」
◆95年8月9日(逆転優勝を信じて)「9月には、ドラマがありますよ。メークドラマですよ」
◆96年6月12日(松井のバースデーアーチも実らず)「せっかく松井が打って皆さんいろいろ用意してたんでしょ。原稿がぶっ飛んじゃいましたね」
◆96年11月17日(FA宣言した清原獲得に向け)「いいでしょう、やりましょう、(永久欠番の)3番を。それくらいみんな納得するでしょう」
◆97年7月5日(阪神戦で監督700勝)「別にどうってことない。それより今日は暑かったな」
◆98年10月24日(無期限出場停止処分を受けていたガルベス球界復帰に一句詠み)「ガルベスが カリブの海で ブイ(V)運ぶ」
◆99年9月11日(阪神戦で6投手の継投が決まり)「今までにない形。新しい『ブリッジ』だからね」
◆99年11月17日(FA宣言した江藤との交渉で)「荒波をかぶってもいいだろう。それが男の勝負だ」
◆01年6月28日(史上10人目の監督通算1000勝達成)「プレーヤー諸君がベストを尽くし、その結晶が1つ1つ積み重なった。監督、コーチの指揮の中にも限度がある。プレーヤー諸君の力100%でつくり上げたと言っていい」