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「逃げるな!」「命まで取られるわけではないだろ!」西本聖氏を支えた長嶋茂雄さんの言葉


プロ野球の巨人軍で監督を務めた終身名誉監督の長嶋茂雄さんが89歳で肺炎のため逝去しました。日刊スポーツ評論家の西本聖氏は、長嶋監督との強い縁を感じており、1979年の広島戦でのエピソードを語っています。試合後、監督室で生涯忘れられない叱責を受け、その言葉がその後の投手人生を支えました。現役最後の年には長嶋監督の下でプレーし、引退試合にも長嶋さんが駆けつけてくれたことを述べています。

西本聖氏

プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。

   ◇   ◇   ◇

西本聖氏(68=日刊スポーツ評論家) 長嶋さんと言っていいのか、長嶋監督と言った方がいいのか分かりません。ただ、ショックというか寂しい気持ちでいっぱいです。私が75年に巨人にドラフト外で入団したとき、長嶋さんは監督就任1年目でした。当時は力不足で、ほとんどチームの役に立っていませんが、縁のようなものを自分では感じていました。

強烈な思い出として残っているのが、1979年8月1日に行われた広島戦です。6点をリードした7回2死から3連続死球を与え、降板した試合です。試合後、監督室に呼びだされ、20発以上殴られました。ただ、殴られたから覚えているわけではありません。「逃げるな!」「命まで取られるわけではないだろ!」という言葉です。これが投手として私を支えてくれる言葉になりました。その試合で3人目に与えた死球は、連続試合出場がかかっている衣笠さんでした。骨折しているにもかかわらず、翌日の試合も衣笠さんは代打で出場してくれました。私の野球人生の中で、もっともインパクトがあった試合でした。

現役最終年も長嶋監督のもとで野球ができました。当時、オリックスを解雇され、長嶋さんに「最後は長嶋さんのもとで終わりたい」と電話しました。長嶋さんは「お前にもプライドがあるだろう。テストを受けるのであれば考える」と言ってくれました。当時のコーチはベテランの存在は邪魔だったのでしょう。それでももう1度、最後は長嶋さんのもとでやりたいという気持ちが強く、キャンプでは背番号なしのユニホームでテストを受け、私の願いをかなえてくれました。

巨人では1軍での登板はありませんでしたが、引退を決めてからヤクルトからオファーがありました。「最後は長嶋さんの下でやりたい」と言った自分にウソをつくのが嫌で、そのまま引退することになりました。

多摩川で引退試合をしていただいたのですが、その試合も長嶋さんは駆けつけてくれました。私服ですが打席にも立ってもらい対戦させていただきました。サードゴロで三塁を守っていた桑田が一塁に悪送球し、長嶋さんはセカンドまで走ったのをよく覚えています。

私にとってもかけ替えのない恩人でした。心より、ご冥福を祈ります。

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