
<吉田義男さんメモリーズ18>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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阪神歴代OBで、もっとも多く対巨人の“伝統の一戦”でプレーしているのは、吉田さんの通算425試合が最多記録だ。巨人では王貞治さんの572試合がもっとも多い。
1964年(昭39)オフ、吉田さんが南海ホークス鶴岡一人監督夫妻、名選手の広瀬叔功さん、そして王さんとヨーロッパを旅して回ったのはスイートメモリーだった。
この年の阪神は、三原脩監督の大洋をひっくり返し、奇跡の逆転Vを遂げたが、日本シリーズで南海に敗れた。55本塁打を放った王さんは、優勝チーム以外から初のMVPを受賞した。
「エールフランスが約1カ月間の旅行に招待してくれましてね。うちは藤本(定義)監督が行くはずでしたが、なぜかぼくが代わりに選ばれた。阪神は南海と仲が良かったし、広瀬も気のいい男です。後々、フランス代表監督を務めるとは夢にも思いませんでしたが、ワンちゃんとよく話したのを覚えてます」
吉田さんは首位打者争いを演じたが、最終的に打率3割2分3厘の中日江藤慎一さんにタイトルを奪われた。2位が王さんで、吉田さんは3割1分8厘で後塵(こうじん)を拝した。
王さんは初タイトルを獲得した62年に続いて、本塁打、打点の“2冠”に輝いた。「ワンちゃんといえばホームラン、野球の華ですわ。ぎょうさん打たれましたで」と苦笑した吉田さんには記憶に残っている“王語録”があった。
「ワンちゃんが『地球がぼくを中心に回ってる』といった年でしたな」
野球の鬼だった川上哲治監督で9連覇をスタートさせる前年、常勝巨人の夜明け前だった。吉田さんは「パリでワンちゃんから聞いた努力の話は、わたしの野球人生にも影響を及ぼした」といった。
「バットをたくさん振るのはおったでしょうが、あんなに振った選手はいないんちゃうかな。阪神戦の宿泊先だった竹園旅館で素振りをして、甲子園でゲームをして、帰ってまた素振りをした。いつも指が割れて血がでてばんそうこうをしてましたで。自分が『これだけ振ってるんだから打てないはずがない』という気持ちになるまで振り続けるらしいんです」
阪神-巨人は永遠のライバル。59年6月25日のプロ野球史上初の「天覧試合」(後楽園)は、新人だった王さんが2点本塁打、長嶋茂雄さんがサヨナラ本塁打を放った。
その後スターダムをのし上がっていく王さんにシフトを敷いたのは、広島白石勝巳監督だった。64年5月3日の後楽園球場。吉田さんも藤本監督から“王シフト”をとるように指示を受けた。
「藤本さんから言われたのは『王を邪魔せい!』いうことでした。はっきり覚えてます。お前はもうショートを守らんでええから、二塁ベースの後ろにいっとけと。そして『打席の王に両手を大きくガーッと振ってやるんや』と言われました」
そのかいもなかった。阪神は王さんに1試合4打席連続本塁打を浴びる。史上初の快挙だった。
「そうそう。ワンちゃんは、バッターボックスに入ったとき、自分の手を見て『おれは打てないはずはない』と思うらしいんです。そして『ホームベースを踏んだ瞬間から、次の打席のことを考える』とも話してましたな」
宿敵巨人に燃えた伝説の男にとって「巨人戦だけは甲子園もお客さんで満員になったからやりがいがありました」とG倒が生き甲斐そのものだった。【寺尾博和】