
今年も3月11日を迎えた。2011年の東日本大震災から14年。楽天牧田明久2軍外野守備走塁コーチ(42)は地震発生時、現役選手として本拠地のKスタ宮城(現楽天モバイルパーク)にいた。被災経験から抱く思いを聞いた。
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牧田コーチにとって、16年間の現役生活で唯一の試合がある。「終わらないでくれと、初めて思いました。あの試合だけは、いつまでも外野で守ってたいなって」。2013年11月3日、巨人との日本シリーズ第7戦。9回を迎え、FUNKY MONKEY BABY’Sの「あとひとつ」に乗って田中将がマウンドに向かい、投球練習を行う。その光景を、Kスタ宮城のレフトの守備位置で見ていた。「あの曲を聴くと、いまだにタイムスリップしますね」と目を細めた。
終わらないと日本一にはなれない。でも、終わって欲しくない。相反する感情は、自らの活躍があったからだ。2-0の4回に沢村から貴重なソロ。人生最高の1発と自負する。ダイヤモンドを1周しながら「球場が揺れた」のが分かった。その968日前、球場は別の理由で揺れた-。
「だまし、だましやってたんですけどね」。星野監督1年目。外野の一角と期待された。沖縄・久米島キャンプの打撃練習では、田中将から特大ホームランも放った。が、自慢の肩を肉離れした。首脳陣には隠したが、オープン戦前に限界を迎え1軍を離れた。
あの日は昼過ぎに練習を終え、トレーナー室で治療を受けていた。けたたましいアラーム音。「来る」と直感し、駐車場へ飛び出した。とっさに球場そばのマンションを見た。「倒れてない?」。自宅ではなかったが、同じくマンションで待つ家族が頭をよぎった。
遠征中の1軍や2軍本隊に対し、仙台にいた2軍のリハビリ組は活動停止となった。絶え間ない余震。避難所に車を止め、家族で車中泊した。自宅には水のストックがなく、近所の人に救われた。数日後、球団が用意したバスで新潟経由で関東へ向かうまで、そんな日々だった。
「正直に言いますと」、そう前置きして告白する。「当時は自分の野球で必死でした。けがもありましたし」。ただ、ファンの存在を強く感じた瞬間は、震災が絡む。日本一のあと、ニュースで自身のホームランが流れた。直後に画面が切り替わる。喜びを爆発させる人たち。津波で甚大な被害を受けた宮城・南三陸でのパブリックビューイングだった。「みんなでハイタッチしてて。あんなのを見ると、本当にうれしくなりますね」。たまたまだが、選手が東北各地で行った優勝報告会は南三陸を担当。「盛り上がりましたよ。でも、一緒に行ったのが斎藤隆さんだったからです」と笑った。南三陸には、今もおいしいものを食べに出かける。
3月11日とは。「思い出さないといけない日です。そして、伝える日。特に僕は仙台にいましたから。伝えていくのも仕事。野球が普通にできるのは当たり前じゃない」。コーチとして、自分の子どもと大して年齢が変わらない選手とも接するようになった。伝えていく。あの日、何があったのか。そして、ファンが望んでいることとは。「やっぱり、優勝しないとダメなんです」。3・11のあと、今年は3・28に開幕する。【古川真弥】
◆東日本大震災 2011年(平23)3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とするマグニチュード9・0の地震が発生。最大震度は宮城県栗原市の震度7を観測した。岩手、宮城、福島の3県を中心に沿岸部は大津波に襲われ、今月1日現在の死者は全国で1万9782人。行方不明者は2550人に上る。同日、東京電力福島第一原発の事故が発生。避難者は一時16万人以上に上った。