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<吉田義男さんメモリーズ7>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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プロ野球には、あまたの評論家がそろっている。こちらをうならせる鋭敏な論評もあれば、説得力を欠く解説もある。吉田さんのように「守備力」にこだわった客員評論家は希少だった。
フィールディングの技術もあったし、守備体系など戦法を論じたときもあった。どうしても「打った」「投げた」の評論になりがちで、地味で、難しくもある守備論に行き届かないケースが多い。
吉田さんは「どうして最近の内野手は正面に入って捕球しないんでしょうか?」と問い続けた。フィールディングに対する“ヨシダの考え”は最後までというか、死ぬまで続いた執念と言っていい。
「今の選手は、正面にきたゴロでも、わざと斜になって難しく捕るでしょ。どうしてなんですか? 投げやすいからでっか。ぼくは小さい子供たちに教えるとき正しくない基本だと思ってるんですわ」
そんな守備論を交わすだけで、とうとうと時間が過ぎた日もあった。人工芝の影響もあるかもしれないし、肩の強弱、スムーズに送球しやすい体勢に入ることを優先する捕球法かもしれない。
今でも豪快な打撃だけが語られる中西太さんは、西鉄ライオンズの名三塁手だった。吉田さんも「ふとっさんの守備は俊敏で強肩でした」と認めた。中西さんは打撃だけでなく、守備を教える名コーチだった。
例えば近鉄では、若手だった金村義明さん、石井浩男さんらの堅い三塁手が育っていった。その中西さんは「ライン際は逆シングルで」と臨機応変な教えでノックを繰り返した。
18年夏、吉田さんと中西さんは顔を合わせた。大物2人の対面はこれが最後になった。日本経済新聞の名物記者・浜田昭八さんも合流し、名手2人の会話が尽きなかったラストシーンを思い出した。
もっとも三塁手と遊撃手では転がってくる打球の質も違うし、正面で捕ったり、左足前にグラブを差し出すなど、捕球の仕方も変わってくる。だが吉田さんは頑として「内野手は正面で捕るのが基本ですわ」と譲らなかった。
“今牛若丸”と称されたプレーヤーだけに守備には厳しかった。実績に裏打ちされた眼力は、そこに起きていない事象でも先を見通すことがあった。
例えば19年の阪神に途中入団した遊撃手ソラーテを数試合見ただけで「あのショート、品格がありませんな」と突き放した。すると「モチベーションが上がらない」と問題発言を残して日本から去っていったのは驚きだった。
23年に日本一になった前阪神監督の岡田彰布さんは「野球やってて『守りで攻めろ』と教えられたのは吉田さんが初めてだった」という。わたし自身も記者として「守備にも品格が必要でっせ」と諭されたのは初めてだった。
今年2月の阪神沖縄キャンプでは初日から全員ノックがメニューに入った。吉田さんが阪急ブレーブスの黄金期を築いた西本幸雄監督の練習を参考にしたもので、岡田阪神でも実践された。
今春も初日から全員ノックが浴びせられ、吉田イズムが引き継がれている光景を目の当たりにした。その2日後の3日、吉田さんは逝った。まるで古巣に根付いた“伝統”を見届けたかのように…。【寺尾博和】