プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。
現役時代は華麗なフィールディングで「今牛若丸」と称され、阪神で初代日本一監督だった吉田さんがこの日早朝、静かに息を引きとった。
12月初旬に体調を崩し、西宮市内の病院に緊急入院していた。いったんは回復したかにみえたが、昨年末に再び病状が不安定になった。
年明けは少し穏やかな様子が続いていたが、この2月3日に容体がおかしくなった。午前5時16分。天命をまっとうした。91歳だった。
1953年(昭28)に阪神入りし、現役生活17年、古巣の監督を3度、計8シーズン務めた。85年には球団初の日本一に導いた。
「わたしは阪神タイガースに育てられ、阪神に男にしてもらいました。幸せな野球人生でした」
現役時代は計8人の監督に仕えた。「総じて厳しく教わった気がします」。新人のときの松木謙治郎監督から失敗しても起用されながら名ショートに育っていった。
若い頃は初代ミスタータイガースの藤村富美男さんについて用具係をして学んだ。チームメートの村山実、小山正明、バッキーら好投手とともに西の老舗球団を支え続けた。
現役時代には62年、64年に2度の優勝を経験した。NHKで解説した小西得郎氏が「ひらりひらりと敏しょうな動きをする」と“牛若丸”と名手ぶりを表現した。
米大リーグ来日の際、もっとも傑出した選手として「アウトスタンディングプレーヤー」に選ばれる。ヤンキースの名監督ケーシー・ステンゲルから「米国に連れて帰りたい」と称賛されたほどだ。
またプロ野球唯一になった1959年の天覧試合でも活躍した。背番号23は永久欠番。36歳で現役引退した後は単身渡米を繰り返し、英会話教室に通いながらメジャーリーグを見て回った。
当時の視察でパワーとスピードにも驚いたが、吉田さんがもっとも感心したのは、大リーグがOBをリスペクトし、歴史と伝統を大切にしている姿勢だった。
阪神で2度目の監督に就いた85年は、チームを21年ぶりのリーグ優勝、パ・リーグの覇者で広岡達朗監督率いる西武を下して球団初の日本一に導いた。
甲子園を本拠にする監督として、やはり守備にこだわった。「一丸」「挑戦」「当たり前を当たり前に」と唱え続けながらチームを強化した。
特に4月17日の巨人戦(甲子園)でのバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発は語り草。日本全国で起きた熱狂的な猛虎フィーバーは社会現象になった。
阪神監督を退任した後は、フランス・パリで野球の指導にあたった。ムッシュヨシダと言われた男は「野球に国境はない」とフランスナショナルチーム監督を7シーズン務めながら欧州から五輪出場を目指した。
プロ野球出身のOBで約30カ国・地域のチームと対戦した人材はなかなか見当たらない。日本きっての国際派だった。東京五輪で野球復活に尽力するなどプロ・アマ球界に貢献した。
今シーズンの阪神は90周年の節目を迎えた。春季キャンプを前にした先日、自らの名前のついた「吉田義男シート」の設置を発表したばかりだった。
本人からの「わたしは阪神タイガースに人生をささげてきたといっても過言ではない。なんらかの形でファンに恩返しがしたい」という気持ちからだった。阪神タイガースを愛し、野球を愛した男が、ついに力尽きた。
【寺尾博和】