Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~<下>
希代のヒットマン、イチロー。米国で3089安打を重ね、21日(日本時間22日)に日本人で初めて米国殿堂入りした。日米通算4367安打をマークしたイチローは、いかにしてメジャー史上初の日本人野手としての道を走り抜けたのか-。米国での足跡をたどる「Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~」の最終回。(敬称略)
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衝撃的な一報だった。2012年7月23日。イチローが、自らの意思でマリナーズからヤンキースへトレード移籍することが発表された。「20代前半の選手が多いこのチームの未来に、来年以降、僕がいるべきではないのではないかということでした」。
当日は、地元シアトルでのヤンキース戦。自身の胸中を明かした会見後、これまでの一塁側ではなく、三塁側にあるビジターのクラブハウスへ向かい、「8番右翼」でスタメン出場し、4打数1安打、1盗塁。惜別の拍手を送り続けるファンの前で、前日まで敵だったヤ軍の勝利に貢献した。「僕自身も環境を変えて刺激を求めたいという強い思いが芽生えてきました」との言葉通り、背番号「31」のユニホーム姿には、新たな決意がにじんでいた。
13年8月21日には、ピンストライプのユニホームで、日米通算4000安打に到達した。NPBで1278本を放ったとはいえ、米国では2722本目。区切りの数字ではなかった。それでも、デレク・ジーターらヤ軍の同僚がダッグアウトから駆け寄り、快挙を祝福した。「僕のためにゲームを止めて僕だけのために時間をつくってくれる行為なんか想像できるわけない。ただただ感動しました」。その一方で、イチローは毅然(きぜん)と言った。「僕の数字でいえば、8000回の(凡打の)悔しい思いをしてきた。それと向き合ってきた事実がある。誇れるとすればそこじゃないかなと思う」と、独特の人生観を口にした。ヤ軍では、「代打の代打」を送られてベンチに下がる経験もした。だが、たとえプライドを傷つけられても、イチローの野球に取り組む姿勢が変わることはなかった。
41歳となり、FAとなった15年には、マーリンズへ移籍した。当時のマ軍は、20代半ばのスタントン(現ヤンキース)、イエリッチ(現ブルワーズ)、オズナ(現ブレーブス)と若手の有望選手が外野を占めており、イチローの立ち位置は「第4の外野手」だった。野球人生では、おそらく初めての「控え」の立ち位置だった。それでも、イチローの前向きな姿勢は変わっていなかった。開幕戦の前には、あらためて心境を口にした。「年齢差もあって、みんなかわいくてしょうがない感じ。この時点で、こんな気持ちになることは今までなかったこと」。定位置を争うライバルに心優しい言葉を送るほど、新たな境地に入っていた。
16年8月7日のロッキーズ戦では、史上30人目となるメジャー通算3000安打に到達した。自軍の同僚だけでなく、敵地ファンもが総立ちで祝福する光景に、イチローはサングラスの奥で涙を隠し、万感の思いに浸った。「僕が何かをすることで他人が喜んでくれることが、今の僕にとって何より大事なものだということを再認識した瞬間でした」。
18年3月、44歳で古巣マリナーズと契約したイチローは、5月にメジャー25人枠から外れた。それでも、単独練習を継続し、翌19年、東京ドームでの開幕2連戦での出場を最後に引退を表明した。「後悔などあろうはずはありません」。成功以上に失敗に目を向け、悔いを残すことなく走り続けた野球人生。日本人初の米国殿堂入りだけでなく、イチローが残した功績と生きざまは、数字だけでは語り尽くせない。【四竈衛】(おわり)