1995年(平7)1月17日に発災し、6434人もの死者を出した阪神・淡路大震災から、あす17日で30年を迎える。兵庫・淡路市で生まれ育った阪神近本光司外野手(30)は当時生後2カ月。震災の記憶はないが、家族が生命の危機にさらされ、物心ついたころから被害映像や経験者の声を身近で聞きながら、日々向き合ってきた。本拠地甲子園も被災した地元球団でプレーする選手の1人として、教訓を次世代へ受け継いでいく使命を明かした。
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阪神・淡路大震災が発災した時、近本はまだ生後2カ月だった。兵庫・淡路島で育ち、地元球団でプレーする選手として、芽生えた使命。神妙な面持ちで、丁寧に言葉を紡いだ。
「僕に求められるところは、いろんなメディアで、いろんな人から話を聞いたことを発信したり、また次の知らない世代に対して、話をつなぐ人にならないといけないかなと思う」
震源地は淡路島北部。ふるさとも多くの家屋が倒壊し、甚大な被害を受けた。19年のルーキーイヤーにも、家族から聞いた話を明かしている。「僕は大丈夫だったんですけど、兄が寝ていたところにたんすが倒れてきたと聞いて、もし少しずれていたら命も危なかった」。家族の生命が脅かされていた。当時の記憶はないが、物心ついたころから震災と向き合う日々だった。
小学生の時には、淡路時の北淡震災記念公園を2度訪れ、当時のまま保存された断層を見て衝撃を受けたという。近年も当時の地元の被害映像を目にし、自宅の近くや、通学路の様変わりした姿に胸を痛めたという。
「僕の年齢とか出身地というところで、阪神・淡路大震災のことが話すきっかけにつながることもありました。聞いた話を話したり、実際に経験したわけじゃないけど、それがつながっていく。そういうことなのかなと思います」
被災地で生まれ育ち、経験者の生の声も身近で聞いてきた。被災地でもある甲子園で活躍する自らの発信力を生かし、次世代で伝えていく役目を感じている。
自宅の玄関のクローゼットには、災害時用の備品を常備している。「自分も、自分の家族もそうだし、しっかり守っていかないといけない立場なので」。家族でハザードマップを確認しながら「どういうところが大丈夫かな」と話し合うこともある。備えを忘れないのも、教訓を知るからだ。
「もっと言うと勉強というか、いろんな人に話を聞かないといけないと思っている。それが結果的に自分自身にもつながってくるかなと思う」
記憶と被災者の思いを風化させないために。自身の活躍とともに、未来へつないでいく。【山崎健太】
◆阪神・淡路大震災 1995年(平7)1月17日午前5時46分、近畿地方で発生した直下型地震。マグニチュード7・3、神戸市、淡路島などで震度7を記録した。高速道路が倒れ、数多くの家屋が倒壊、火災も発生するなど被害は甚大で、死者6434人、負傷者は約4万4000人にのぼった。甲子園球場もスタンドの床などに亀裂が入るなどの被害が出た。