プロ野球関係者からの認知度を年々高める“独立リーグの人”がいる。BCリーグに所属する「茨城アストロプラネッツ」の色川冬馬GM(34=いろかわ・とうま)だ。この秋の“清原Jr.”への動きをフックに、前後編に分けて独自のGM観に迫る。【取材・構成=金子真仁】
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話題の慶大・清原正吾内野手(4年=慶応)についてドラフト会議の1週間ほど前、うわさが飛んだ。
「独立リーグのチームが狙っている」
どこか-。すぐに頭に浮かんだのがBC・茨城(以下「茨城」)の色川GMだった。米国でのトラベリングチーム「アジアンブリーズ」のCEOも務めている。昨オフにはDeNAを退団したバウアーを臨時登板で招き、野球界では大きな話題になった。そんな仕掛け人だ。
清原のところには9日からの早慶戦前に9球団が正式オファーをかけた。茨城も興味を示したから「10球団が興味」という報じ方でも間違いではないが、少し色合いは違った。
「声をかけたい気持ちはありますし、その話はうちの球団内でもあります。でも、僕らの球団って同じマーケットで勝負しに行っちゃいけないって思ってるんです。仮に競争に勝てばうれしいですけど、独立リーグの意味を考えたりすると…。もし清原さんが海外に挑戦したいっていうなら、喜んでお手伝いできることはあると思います」
独立リーグを“NPBへのラストチャンス”と捉える若者も多い。だから「レギュラーが辞める」事象も独立リーグでは決して珍しくない。編成の仕事は極めて重要になる。
「例えば来年のショートどうしよう、ってなった時に。僕の武器ってやっぱり『海外から選手を取ってこよう』なんですよ。それが強み。清原さんをはじめ、欲しい選手は大学や高校にいますけど、できるなら僕はブルー・オーシャンから選手を探したいんです」
唯一無二を目指す色川GMの歩みも面白い。宮城・仙台市出身。聖和学園から仙台大へ進むも、野球部は大学1年秋で辞めた。
「1年生ってやっぱり手伝いも多くて。大学で野球が終わりになるかもしれない中で、その中の1年、2年がこんなんでいいのかなって。だったらメジャーを目指そうと思いました」
夜行バスで上京し、関係者をたどった。ガソリンスタンドから宅配ピザ、秋保温泉の旅館での布団の上げ下ろしなどアルバイトをいくつかも掛け持ちし、渡航費用を稼いだ。
そうして冬休みに渡米。アリゾナ州でのウインターリーグに約1カ月、参加した。300人前後が参加し、20のチームに分けられた。「でも僕、初日の60ヤードダッシュの2本目で、ハムストリングを切っちゃったんですよ」。
何のためにアメリカに来たのか-。そうならないのが当時19歳だった色川GMの強いところ。「野球やれないならせめて、学んで帰りたい。最低限、友達作りたい。絶対にもう1回来たいから話をつなげたい。選手とかコーチとかに電話番号とかメールアドレスを聞きまくって」。
仙台大に在学しながら、ウインターリーグに毎年行った。3年次には休学してサマーリーグにも挑戦。アメリカだけでなくメキシコやプエルトリコの野球も体験した。
そこでの縁があって卒業後、イラン代表、パキスタン代表、香港代表の監督を歴任し、19年に「アジアンブリーズ」を立ち上げた。英語もほぼできず、地元のファストフード店で英語学習に集中していたら、大学の球友たちにバカにされたこともあった。それがいつの間にか、色川GMが言うところの“ブルー・オーシャン”では、日本国内では第一人者の1人になっていた。(後編へつづく)