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興南旋風、堂々の甲子園4強=本土復帰前に主将で出場―沖縄復帰50年・我喜屋優さんに聞く(1)


 沖縄県の高校野球史に、選手としても監督としても輝かしいページを記した。興南の野球部監督、我喜屋優さん(71)。米軍統治下に置かれていた1968年、夏の甲子園で我喜屋主将の興南は旋風を巻き起こした。沖縄勢初の2勝、さらに勝ち進み準決勝進出。大会後、船で沖縄に戻ると盛大に迎えられた。本土復帰を経て、2010年に母校を率いて甲子園春夏連覇。沖縄勢で初めて夏の全国制覇を遂げた。那覇空港での凱旋(がいせん)光景は、それより42年前の那覇港と重なった。  ◇「大きな火鉢」を体感  沖縄本島南部の玉城村(現南城市)出身。中学では陸上の棒高跳びでトップ選手として鳴らし、1966年に興南に入学した当初は陸上部に在籍。だが、ポールの素材が移行期で「十分にしならず、これではかなわない」と諦め、野球部への転身を願い出て認められた。  1年生でもあり、日々雑用。コツコツとこなしていたら、夏の甲子園初出場を決めた3年生が現地での雑用担当に選んでくれた。パスポートをつくり、甲子園に同行。目の当たりにした球場は「大きな火鉢のよう」。先輩たちは初戦で敗退したが、夢舞台の雰囲気を体感したことが、2年後に生きた。  3年生の夏は主将で4番、中堅手。「甲子園には勝ちにいく。相手は同じ高校生なのだから」と誓う。報道陣からは「日の丸をどう思うか」など野球と無関係な質問も受けた。「世間に同情的な見方をされていたと思う」。興南ナインは、そうしたムードを勝つことで振り払っていった。宿舎への通り道に市場があった。「おじちゃんたちが『また勝てよ』と声を掛けてくれた。そこを通るのが楽しみになった」  ◇琉球政府が式典を後押し  2回戦、3回戦に勝ってベスト8。そして準々決勝も突破。「勝ち進むにつれ『優勝旗も近いんじゃないか』との声も聞こえだした。一戦必勝の心構えだったのが、徐々に優勝がちらついて、足元が緩み始めてきた」。興国(大阪)との準決勝では二回までに0―6とリードされ「流れが向こうに行ってしまった」。0―14で大敗。それでも、興南の健闘に地元は大いに盛り上がっていた。  68年8月31日、興南の選手たちを乗せた船が那覇港に到着すると、歓迎式典が待っていた。オープンカー数台に分乗したパレードも。沖縄県公文書館にある「琉球政府」の資料には、式典に約630ドルを負担したとする当時の経費報告文書が残されている。甲子園での奮闘を示すかのように「みんな泥が着いたままのユニホームを着ていた」。18歳の夏を述懐した。 (了) 【時事通信社】 〔写真説明〕興南の我喜屋優監督=3月8日、那覇市の興南高 〔写真説明〕1968年夏の甲子園でベスト4入りした後、地元沖縄での式典でインタビューに応じる興南の我喜屋優主将=68年8月31日(沖縄県公文書館の資料写真) 〔写真説明〕1968年夏の甲子園でベスト4入りした後、地元沖縄に戻った興南の我喜屋優主将(中央)ら=68年8月31日(沖縄県公文書館の資料写真) 〔写真説明〕1968年夏の甲子園でベスト4入りした後、地元沖縄に戻ってパレードする興南の選手ら=68年8月31日(沖縄県公文書館の資料写真)
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