経済的に進学が難しい家庭の子女が、高校や大学など高等教育を受けるために借入し、卒業後に返済していく奨学金(貸与型と呼ばれる)です。
私自身、この奨学金を借りて、銀行員生活の中で返済を終えましたが、奨学金についてネガティブな声が多いと感じています。
お金に関すること、進学に関することなど人それぞれですが、どうしても伝えたいことを紹介します。
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伝えたいこと1:奨学金利用と奨学金返済は自分で選んだ道
「奨学金を借りなきゃいけないのは不公平」
「経済的に苦しい家庭なので、借金しなければ進学はできない」
「借金しなければ進学できないような社会が不公平だ」
「奨学金を借りるのも不公平が生み出した産物」
こういった論調があります。
「借金しなければ大学に行けないなんて不公平だ」私自身こう感じましたし、憤りや悔しさ、恥ずかしさを抱えたことは事実です。
奨学金を利用することと、奨学金を返済していかなければならないことは、ともに「自分で選んだ道だから仕方がない」と私は納得して返済していきました。
ネガティブな考え方かも知れませんが、これはまぎれもない事実です。
私はまだ小さい頃、お金持ちの友達のことをうらやましく思うことがありました。
オモチャやスポーツ用具、そのほかいろいろと買い与えてもらう友達を見て、何とも言えない感情を抱いたものです。
しかし、こういった経験は多かれ少なかれ誰でもあります。
お金持ちの友達と自分を比べて不公平だと感じたからと言って、絶交する人ばかりではありません。
不公平は存在してあたりまえですし、お金元の友達が悪いわけでもありません。
貸与型の奨学金を悪しざまに書くと、世間の興味をひくようです。
奨学金を借りなければいけない状況を不公平だと主張するのも、こうした風潮だと私は感じています。
「上には上がいる、だから上を見て羨ましがるのは、無駄に自分を苦しめるだけ」
私はそう考えて奨学金返済をしてきました。
伝えたいこと2:借りたら返すは当たり前
「奨学金は国営の闇金」
「きびしい奨学金の督促から逃れるには?」
「国営」とは日本学生支援機構による貸与型奨学金が公的なものであるところを指しているのですが、にたような表現で「国が経営するサラ金」「国営ヤクザ」もあります。
家庭の事情などで奨学金を利用し、さまざまな事情で返済に困る人が多いのも事実です。
奨学金返済に困っている人の歓心を買うために奨学金が悪だと表現があるのも事実です。
こうした表現は「債務整理」「自己破産」を商売とした意図が潜んでいることもあります。
精神的に参っているという部分だけを見ると、なんとなく同情すべき理由に思えるかもしれませんが、銀行員の私は違和感を覚えました。
人それぞれ家庭の事情、身体的精神的な事情は確かにあると思いますが、督促が来ても連絡せず(できず)放置していたなら、督促した相手側(この場合は日本学生支援機構)は督促に応じてもらえず、返答ももらえなかったという事実だけが残るのです。
この例は、奨学金を声高に責め立てて債務整理に誘導する記事ですが、相談に乗っていたのなら、少なくとも先方に連絡して窮状を知らせるようにアドバイスできたはずです。
このように恣意的な論調だけで「奨学金の督促がきびしい」と結論付けていると感じてしまいます。
借りたお金を返さなければ、督促されることもあり得ます。
学生の就学を支援する奨学金の返済に対する連絡、督促や回収の手続きは正当な手順で真摯に行われています。
決して不当にきびしいものではありません。
奨学金を利用したものとして、この点は強く間違いを正したいと思います。
このような誘導の裏には、奨学金返済で困っている人を商売のターゲットにしている人たちがいることも忘れないですください。
伝えたいこと3:奨学金のおかげで今がある
現在「奨学金帳消プロジェクト」と言って、奨学金の返済に苦しんでいる若者を中心にして、日本学生支援機構から借りている奨学金を免除させようという運動があるそうです。
家庭の事情から奨学金を利用せざるを得ず、社会人になってから返済に苦しんでいる人や、若者が進学するために借金しなければいけない今の社会構造を変えようと声を上げている人など運動でもさまざまな意見が出ています。
その基本に流れているのが
という考え方です。
私は、これは違うと思います。確かに不公平は存在しますし、それを恨む人がいても責めることはできません。
しかしながら、私自身も奨学金返済をしてきた経験から、運動の主張や訴えたいことに一定の理解はできますが、奨学金の帳消しには賛同できません。
この事実は誰にも否定できないと考えています。
奨学金を利用しなければならなかった境遇に憤ることや、返済に苦しんでいる気持ちは、私も同様に抱え、悩んできたので、運動を真向否定するつもりはありませんが、だから奨学金を帳消しにするという結論には進んでほしくないというのが本心です。
こうした運動が起こり、奨学金を帳消しにするといった発想につながるのは、他人の境遇を許容できる余裕が、世の中全体に減りつつあるからではないかと感じます。
奨学金が返せないという記事に対して
「借金するやつが悪い」
「借金しなければ子供を大学に行かせられない親が悪い」
といった声が上がります。
確かにそれはその通りです、でも他人の痛みをわかってあげられる許容範囲も必要だと思うのです。
子供に奨学金という借金を背負わせる親のつらさは、私が自分の親を見て知っています。
これと同じように「人の不幸がうれしい」人たちがいるのも、悲しいことではありますが事実です。
「子供に無理な借金を背負わせたため、結局返せなくなって子供が不幸な結末を迎えた」
奨学金を題材にする記事は、登場人物が苦しんでいたり、不幸な結末を迎えていたりといった内容が多数派です。
これは残念ながら、そういった記事を好む人がいるからで、ニーズがあるから記事を書く人もいるのだと思います。
かくいう私も奨学金返済に苦しんだ記憶があります。
しかし、苦しいながらもなんとか返済した私の話しでは記事が面白くありません。
また、こういった記事ではあえて「ツッコミどころ」つくる傾向があり、ここも私は賛同できない部分です。
「奨学金を借りたけれど、生活レベルを下げるのがイヤで他人よりいい部屋に住みいい服を買い、奨学金もそれらに使ってしまった」
「学費は奨学金で賄い、アルバイトを生活費にする計画で学校に通い始めたけれど、サークルが楽しくてアルバイトができず、学生ローンに手を出して自己破産してしまった」
これらは、まるで奨学金が原因のように書いていますが、奨学金は破綻の直接的原因ではなく、こじつけに近いものです。
こうしたシナリオで「だから奨学金は悪」と誘導する記事が、いつまでたってもなくならないことが、他人を許容できなくなっている現代社会の問題点であると思います。
「奨学金を利用しなければ進学できないなら進学するな」と思うなら、自身がそうすればいいだけです。他人に押し付ける必要はありません。
「奨学金のおかげで今がある」と考えている私は強く思います。(執筆者:銀行員一筋30年 加藤 隆二)
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