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七夕の物語 彦星と織姫を引き合わせた鳥がいた


 五節句の一つである七夕は、彦星(牽牛星・アルタイル)と織姫(織女星・ベガ)が年に一度だけ天の川で逢瀬を楽しむ、というロマンチックな話として広く知られている。日本で広く知られるこの伝説は奈良時代、中国から伝わった。

 奈良時代、中国から、「乞巧奠(きこうでん、「巧」は裁縫の上達の意)」と呼ばれる星祭りが日本に伝わった。これは、女子が裁縫の上達を願って、養蚕や針仕事を司る星とされる織女星に針や絹糸を供えたお祭りで、宮中の儀式として定着した。

 そして、このお祭りが、日本古来の、神様へ捧げる衣を織る「棚機女(たなばため)」に対する信仰と結びついて、現在の七夕になったといわれる。「七夕」を「シチセキ」と読まず、「タナバタ」と読むのはこのため。

 日本の七夕は、先祖が帰ってくる盆を迎えるにあたっての「禊ぎ(みそぎ)」の意味の伝統行事とされる。人里離れた水辺の機屋(はたや)で、神の妻となる処女が神を祭って一夜を過ごし、翌日七夕送りをして、穢れを神に託し持ち去ってもらう祓(はらえ)の行事であった。今でも七夕の夜に水浴びをしたり、井戸の底の泥を取り除く風習のある地方のもある。昔は笹飾りに現世の悪い事を移して流していたという。

■彦星と織姫の逢瀬にかささぎが一役

 彦星(牽牛星・アルタイル)と織姫(織女星・ベガ)に、天の川に輝く白鳥座のデネブを加えた1等星のトライアングルが、有名な「夏の大三角」だが、7月7日は、日本の大部分はまだ梅雨の最中だ。

 これは、旧暦(太陰暦)から、国際的に使用されている新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)に改暦され、七夕行事も新暦の7月7日に行なわれるようになったためである。旧暦の7月7日に行われていた七夕は、本来秋の行事であり、空には綺麗に天の川が見えていた。

 ところで、雨の七夕に関し、次のような話が伝えられている。「7月7日に雨が降ると、天の川の水かさが増し、織女は向こう岸に渡ることができなくなる。川下に上弦の月がかかっていても、つれない月の舟人は織女を渡らせてはくれない。牽牛と織女は天の川の東と西の岸辺にたたずみ、お互いに切ない思いを交しながら、川面を眺めて涙を流す。すると、そんな2人を見かねて、何処からともなくかささぎの群れが飛んできて、翼と翼を広げて天の川に橋をかけ、織女を牽牛のもとへ渡す手助けをしてくれる」。

 上弦の月とは半月のことで、太陰暦では7月7日は必ず上弦の月となるため、その形から織女と牽牛が乗る舟に見立てたようだ。

 夜空を見上げれば、昔の人々のイマジネーションの豊かさに感嘆することだろう。はたして今年は、彦星と織姫は天の川で無事に会う事ができるだろうか?

■笹飾りには意味がある 願いを込めて…

 現在、七夕の笹飾りには、願い事を書いた短冊や吹流し、投網(とあみ)などの切り紙細工を飾るが、それらにはそれぞれに意味がある。

 笹竹:七夕の原型が中国から伝わる前から、日本では、笹(竹)は神聖なものとして大切に扱われてきた。タケノコから親竹になるまでの期間の速さに生命力を感じ、強力な殺菌力を持つその葉に魔除けの力があると考えられていた。そのため、人々は笹竹で身を清めたり、魔をはらう儀式をしたり、神に祈りをささげたりした。今でも地鎮祭では、笹竹を立てて土地を清め、神社で宮司さんや巫女さんが笹でお清めをすることがある。

 笹飾り:七夕の神である織姫・彦星に捧げ物をするときの目印として、神聖な植物である笹竹を立てたのが始まりで、後に、捧げ物が今のような飾り物に変化し、さらにはそれを笹竹に取り付けるようになったのではないかといわれている。笹飾り自体が文献に初めて記されたのは、鎌倉~室町時代のあたりで、ポピュラーになったのは、江戸時代になってからのようである。

 短冊:七夕の歌にもある「五色の短冊」は、もとは五色の布が使われていたようで、裁縫や機織りが上達することを願って、織り姫に捧げたとされている。その他、針に五色の糸を通したものを飾ることもあった。後に、高価な布の代わりに紙の短冊となり、裁縫や機織りの上達といったこと以外の願い事も書くようになった。また、平安時代、貴族たちが、七夕まつりで詠んだ歌を「梶の葉」に書いたのが変化したという説もある。

 吹き流し:昔の織り糸を垂らした形を表わしており、機織や技芸の上達を願う。現在の吹き流しは、この五色の織り糸の形が原点といわれる。

 投網:折り紙にはさみを入れ、網目状にしたものを飾る。魚介の豊漁を祈ると同時に、食べ物に不自由しないよう豊作を祈る。今年の幸運を寄せ集めるという意味も含まれている。

 その他にも、最近は少なくなったが、野菜や果物などを描いた札もある。七夕と結びついた農耕のおまつりで、この時期に取れる野菜をお供えしたことからきている。

■古くにはそうめんのお供え物も

 七夕には、冷たい素麺(そうめん)を頂いたり供物とする習慣があったようである。これもまた中国から伝わったものとされる。平安時代の醍醐天皇の頃、宮中の儀式や作法を集大成した法典「延喜式」が制定(927年)されたとき、旧暦七月七日の七夕の節句に、そうめんの原型といわれる「索餅(さくへい)」をお供え物(おそなえもの)とするよう、定められていたそう。

 なぜ七夕の節句の供物がそうめんなのか。七夕伝説から、そうめんを天の川に見立てたという説、機織の糸だという説、夏に栄養価の高いそうめんを食べて健康増進をはかったという説、小麦の収穫を神に報告するためだとする説などがある。ともあれ、そうめんはすでに千年も前に、宮中行事には欠かせない食物であった。

(文・安)

【ニュース提供・大紀元】




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