
福岡市中心部で死者・行方不明者が1000人を超えた「福岡大空襲」から80年。米軍機が投下した多数の焼夷(しょうい)弾で福岡市中心部が火の海となった大空襲で気温までも上昇していたことが分かる当時の観測データが、福岡管区気象台(同市中央区)に今も残されている。
大空襲があった1945年6月19日深夜から20日未明にかけて気温が3・4度上昇し、記録簿には「19日23h―20日3h、各要素ノ異常変化ハ空襲ニヨリ火災発生ノタメナリ」との手書きの文字が添えられている。
戦時中、気象情報は軍事機密として扱われ、観測したデータは中央気象台(現気象庁)に暗号送信されていた。福岡管区気象台は当時、現庁舎隣の旧庁舎で業務を担い、当時の記録は「気象月表原簿」に残されている。
原簿には、空襲警報が発令された時間帯や庁舎で火災が発生した状況を克明に記しており、職員が命がけで任務にあたっていた様子が浮かび上がる。
同年6月19日の天気図などによると、梅雨前線は沖縄付近まで南下し、福岡は午後7時から快晴となった。米軍は標的を定めやすい晴れた日に空襲を決行したとみられる。
空襲直前だった19日午後11時の気温は21・0度だったが、翌20日午前2時には24・4度まで上昇。一方、湿度は午後11時の85%から午前2時に58%まで大幅に低下した。南寄りの風が強まり、20日午前0時29分には12・6メートルの最大瞬間風速を記録。火災による熱風が起きていたとされる。
当時6歳で福岡市中心部に住んでいた江浦美津子さん(86)=同市博多区=は、春吉一帯(現同市中央区)が炎に包まれているのが見え、部屋の隅で小さくなって震えていたという。「窓ガラスが真っ赤に染まってガタガタ音を立てた。その記憶は今も鮮明で、忘れれらない」と話す。
原簿の注意事項には「六月十九日福岡市空襲ノタメ大火災発生シ露場内外ニモ焼夷弾多数落下炎上(中略)」などとあり、気温や湿度はその影響を大きく受けたという趣旨の朱書きがある。
こうした記述について、福岡管区気象台予報課の渡辺剛防災気象官は「当該時刻付近の観測データには火災の影響を受けている項目が複数ある、と当時の観測者が判断したことが示されている」と説明している。【山崎あずさ、平川昌範】