
太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)の元島民らで構成する「硫黄島帰島促進協議会」(促進協、麻生憲司会長)は、硫黄島の戦いが始まってから80年の節目となる19日、国に対し、故郷への帰島を求める要望書を提出する。運動方針を、近年の墓参渡島の機会拡充から、かつての定住帰島へ戻す形。専門家は「帰島を規制する法的根拠はない」としており、戦時中から81年続く「強制疎開」に終止符を打ち、定住帰島の実現を目指す。
硫黄島では戦前、1000人以上が暮らしていたが、1944年夏にほとんどの住民が強制疎開させられた。45年2月19日、米軍が上陸。地下壕(ごう)を拠点とする日本軍守備隊との激戦が1カ月あまり続き、日本軍守備隊は2万人以上が戦死、生き残ったのは1000人程度とされる。米軍の戦死者も6821人に上った。
小笠原諸島は戦後、米国の統治下になったが、68年に日本に返還。しかし、硫黄島への元島民の帰島は認められない一方、海上自衛隊の分遣隊が同島に設置され、70年には飛行場としての運用が始まった。
促進協は69年から、政府や都に帰島を求め続けたが、84年、小笠原諸島振興審議会(当時)が「火山活動」などを理由に「一般住民の定住は困難」などの意見具申を中曽根康弘首相(同)に行い、以後、政府はこれに沿った政策を進めてきた。
促進協はその後、運動方針を定住帰島から墓参渡島の機会拡充などへ移していった。しかし、強制疎開から80年の2024年、再び「定住帰島」を求めることを確認。促進協は「先祖たちが開拓した島に島民1世や子孫たちが帰れないままなのは異常。居住や移転の自由を定めた憲法22条にも反する」と主張する。
現在、島には自衛隊が常駐し、基地関連の工事などをする民間建設会社の社員らも暮らす。ただ、島全体に水道などのインフラは行き渡っておらず、促進協は「すぐに定住はできない。政府によるインフラの整備と並行して、滞在の機会や日数を増やすなど、段階的に進めたい」としている。
「硫黄島」の著書がある石原俊・明治学院大教授(歴史社会学)は「(84年の)意見具申以来、旧島民の間では諦めが広がっていたが、帰島を規制する明確な法的根拠はなく、促進協が改めて原理原則を掲げた意義は大きい」と指摘する。【栗原俊雄】