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「お嫁に行けない」と隠した過去 四日市の元公害認定患者、語り部に


 ぜんそく患者ら原告が勝訴した四日市公害訴訟判決=1972年7月=から半世紀余。風化も懸念される中、公害の教訓などを次世代に伝える「語り部」の存在が欠かせない。その数が高齢化などで当初より半分程度に減る中、元公害認定患者の鈴木優美さん(61)=三重県桑名市=が新たに5月から加わり、児童らにぜんそくで苦しんだ体験などを語っている。胸の内にあるのは「二度と同じ過ちを繰り返してほしくない」という思いだ。

 「咳(せき)が出っぱなしで呼吸がしづらく、とても苦しかった。発作は明け方に起こり眠れなかった」。症状がひどい時は「(意識をなくして)目覚めたら病院のベッドに寝ていたこともあった」。6月下旬、鈴木さんは第2コンビナートに近い橋北地区で育った幼少期の経験を資料館「四日市公害と環境未来館」で四日市市立県小の5年生らに吐露した。

 児童からは「裁判で(原告が)勝った時の感想は」という質問も。「裁判を起こした患者さんらに比べ、私の症状はまだ軽い方だったと思う。それでも、こんな症状が出ているのは公害のせい、企業のせいで、私が悪いわけじゃないんだと思えてうれしかった」

 鈴木さんが気管支ぜんそくで公害認定患者に指定されたのは5歳の頃。以降、症状は続いたが10代半ば過ぎ、母親から突然、「認定患者だとお嫁に行けない」と言われ、認定を取り下げた。

 取材に「以前から、この体験を語ることでいつか社会の役に立てればと考えていたが、認定患者だったことを隠したがった母親の思いが長らく心の重しになっていた」と打ち明ける。母親は7年前に他界し、自身の気持ちが「一区切りついた」。昨年、資料館から語り部の依頼があり、引き受けた。

 語り部は資料館が取り組む事業の一つで、2015年の開館当初、原告の一人で認定患者だった野田之一さん=19年に死去=ら7人でスタートした。7年間はほぼ同数で推移したが、2年前に高齢による死亡や辞退で一気に3人に減った。

 スタート時の7人のうち、公害の被害者は野田さんだけで、他は当時を知る関係者。今回加わった元認定患者の鈴木さんは被害者として2人目になり、資料館の谷本智佳子副館長は「語り部の確保が難しい中、当時のリアルな実体験を語り継いでもらえるのは非常にありがたい」と話す。

 活動を始めて3カ月。鈴木さんは「1日でも長く、子供たちに公害の実相を伝えていければ」と抱負を語りつつ、「そのことがひいては四日市の未来のためになれば」と願う。【松本宣良】

四日市公害

 昭和30年代半ば以降、四日市市臨海部の石油化学コンビナートが本格操業するにつれて発生した大気汚染で、ぜんそく症状を訴える患者が急増した。特に被害が大きかった塩浜地区磯津の患者9人が1967年、工場のばい煙に含まれる硫黄酸化物で健康被害を受けたとして、第1コンビナートの6社に損害賠償を求めて提訴。津地裁四日市支部は72年7月24日、ばい煙と健康被害の因果関係を認め、計8800万円の支払いを命じた。企業側は控訴せず判決が確定。川崎市、兵庫県尼崎市など、その後の大気汚染公害訴訟に影響を与え、産業政策に環境への配慮を促す転機となった。

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