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甲子園の定番「ハイサイおじさん」 陽気なメロディーの裏にある悲劇


 夏の甲子園(全国高校野球選手権)にチャンスで流れる定番ソングとしてすっかりおなじみになった沖縄の曲「ハイサイおじさん」。タレントの志村けんさん(故人)演じる「変なおじさん」がコントで披露していたのもこの替え歌だ。実はおじさんにはモデルがいた。そして、こんな明るい曲が生まれた背景に、太平洋戦争末期、県民の4分の1が犠牲になったとされる「沖縄戦」の悲劇があることも、あまり知られていない。

 <♪ハイサイおじさん 昨夜(ゆうび)ぬ三合ビン小(ぐゎ) 残(ぬく)とんな>

 少年が「こんにちは、おじさん」「昨夜の3合瓶の酒は残っているかい?」と話しかけ、酔っ払いの「おじさん」が応じるコミカルなやり取りをつづっている。

 作詞・作曲した喜納(きな)昌吉さん(75)は、終戦から3年後の1948年に生まれ、コザ市(現沖縄市)で育った。沖縄は60年代に入っても米軍の統治下に置かれ、戦後復興が大きく遅れていた。「皆が貧しく、すさんだ雰囲気があった」。喜納さんは振り返る。

 歌詞に出てくるおじさんは、喜納さんの家の近所に妻や子どもと暮らしていた。「昼から酒ばかり飲んでいた」という。

 喜納さんが13歳だった62年のある日、事件が起きる。おじさんの家に人が集まっており、外から室内をのぞくと、毛布をかけられ床の上に横たわって動かなくなった子どもの足が見えた。

 事件は、地元紙に大きく報じられていた。精神を病んだおじさんの妻が、7歳の自分の娘を殺害した――。おじさんが留守中の悲劇だった。

 妻が心に変調をきたした背景には、戦後も癒えない沖縄戦の傷が見え隠れする。

 太平洋戦争末期の45年4月。米軍が沖縄本島に上陸し、地上での戦闘が始まった。多くの民間人が巻き込まれ、米軍に捕まる前に自ら命を絶つ「集団自決」も起きた。約12万人の県民が犠牲になった。

 行き場をなくしたり、夫ら家族を失ったりした県内各地の女性や子どもが、「基地の街」となったコザに、住まいや仕事を求めてやって来ていたという。

 「子どもを抱え、うつろな目で路上にたたずむ女性の姿をよく見た」。喜納さんも振り返る。「おじさんはそうした女性たちを妻や子のいる家に連れてきていた。おじさんも戦争で仕事を失ったと聞いた。放っておけなかったんじゃないか」。何が事件の引き金になったのか、真相は分からない。でも喜納さんは「戦争が残した狂気を、おじさんの家が吸い寄せてしまったのでは」と感じている。

 事件後もおじさんは集落に残り、喜納さんの家を訪ねては酒をねだるようになった。ある日、いつものようにこっそり1合瓶を渡すと「僕の体にメロディーが、上から下からワーッと入ってきた。事件後も明るかったおじさんの生命力が、曲を明るくしたんだと思う」。ハイサイおじさんはこうして生まれた。

 72年に沖縄が本土に復帰した5年後、全国デビューを果たした。一方、おじさんは人知れず集落から姿を消した。

 おじさんは戦争をどう生き延び、事件後どこへ行ったのか。

 父がかつて民家の石垣などを作る「石積み」の親方をしていたという元自治会長の新城精二さん(68)は日雇い労働者の中におじさんがいたことを覚えている。大柄で体中に傷があり、額の傷はとりわけ大きかった。「戦争で、だと思ったけど、聞いてみたことはなかった」

 仕事がない雨の日は、新城さんの自宅でみんな輪になり、酒を酌み交わした。戦争体験が話題に上ることもあったが、おじさんは自身の話はしなかった。最後に会ったのは事件から10年ほどたった後。新城さんの父が亡くなり、線香を上げに来てくれたという。その後の消息も追ったが、分からなかった。

 曲の誕生から60年。応援歌やコントをきっかけに、若い世代が曲の背景を気にせず口ずさんでいることを喜納さんは幸せに思ってきた。最近は「ゆっくり弾くと、寂しいメロディーでもあるんだ」と気付き、忘れてはいけない記憶があることも改めてかみしめている。【黒川晋史】

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