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「祈りながら」 被爆写真検証に尽力した被爆者 遺品メモが語る思い


 「写真の検証作業は、死者たちとの対面であり、助けを求めた人たちを助けられなかったしょく罪であり、祈りながらの作業である。楽しい作業ではない」。被爆者で被爆写真の収集・検証に尽力し21日に94歳で死去した深堀好敏さん=長崎市=が、そう記していたメモが見つかった。深堀さんが2018年まで部会長を務めた長崎平和推進協会写真資料調査部会が29日に記者会見を開き、明らかにした。

 メモは、深堀さんの死後、長崎原爆資料館内にある同部会事務室のロッカーから見つかった。1990年代末に記されたとみられる。

 深堀さんは、県立長崎工業学校(現長崎工業高)4年だった16歳の時、長崎の爆心地から約3・6キロの学徒動員先で被爆。爆心地近くの叔父宅にいた2歳年上の姉千鶴子さんらを捜しに行こうしたが、爆心地方向から逃げてきた人たちに「向こうは火の海だから」と言われ、引き返した。翌日、叔父宅にたどり着くと千鶴子さんははりの下敷きになって息絶えていた。

 現場には、千鶴子さんが脱出を試みた痕跡があった。「9日に自分が無理をしてでも来ていれば、たとえ助からなくても言葉をかけてやれたかもしれない。死に目に会えたかもしれない」。その思いが後年に被爆写真の検証に取り組む大きなきっかけになった。

 メモには「原爆の風化。原爆投下は知っているが、キノコ雲の下で何が起こったのかはあまり知らない」とも書かれていた。深堀さんは40代の頃、修学旅行生らに被爆体験を語ったが、自らの目で見た事実を言葉で伝えきれないもどかしさを感じていた。それが深堀さんら被爆者6人による「長崎の被爆写真調査会」(写真資料調査部会の前身)の結成につながった。

 18年に深堀さんから部会長を引き継いだ松田斉(せい)さん(67)=同=は「我々には被爆体験はないが、被爆者の思いに寄り添いながら、写真を通じて被爆の実相を明らかにし、伝える活動を続けていきたい」と語った。【樋口岳大、徳野仁子】

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