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朝ドラ「らんまん」の時代、高知は酒処ではなかった?


 4月に始まったNHK連続テレビ小説「らんまん」。序盤は幕末から明治にかけての高知県の酒蔵が舞台になっている。高知といえば飲酒文化が盛んで、現在は質の高い酒どころの一つだ。しかし、酒好きな風土はともかく、当時は酒どころとは言い難かった。関係者に話を聞き、どのようにして、酒どころの地位を確立していったのかを探った。

 俳優の神木隆之介さんが演じる主人公のモデルは、「日本の植物分類学の父」と呼ばれる植物学者、牧野富太郎博士(1862~1957年)。牧野博士の生家は現在の高知県佐川町にあった。「岸屋」の屋号で酒造りをし「菊の露」という銘柄が親しまれていたという。

 現在、町内で唯一、酒造りを続けている司牡丹(つかさぼたん)酒造の竹村昭彦社長(60)によると、明治時代には町内で、竹村本家▽竹村出店(現在の司牡丹酒造)▽浜口家▽牧野家――の4軒が酒造業を営んでいた。ドラマでは酒蔵の跡継ぎである主人公が少年時代から植物に魅せられていく様子が描かれている。

酒造りに厳しい環境

 当時の酒の味はよくわかっていない。ただ精米技術などが発展途上だったため、今の土佐酒の特徴である淡麗辛口ではなかったとみられる。竹村社長は「高知の人間は量を飲むので、甘い酒だと杯が進まない。今より濃かったかもしれないが、ある程度辛い酒だったのでは」と推測する。

 そもそも高知は酒造りには厳しい環境だ。温暖な気候のため酒造りに不要な菌が繁殖しやすく、空調などのない時代は醸造途中に酒が腐るリスクが高かった。上方の銘醸地のような酒造りに最適な水ではなく、米の名産地でもない。

 上質とされたのは上方の酒だった。幕末、大政奉還の立役者の一人で、酒豪としても知られる土佐藩十五代藩主・山内容堂も、著名な灘(兵庫県)の「剣菱」を愛飲していた。

広島から学ぶ

 高知県内で顕著な品質向上が見られるのは大正時代の後半ごろから。郷土文化をまとめた「土佐地域文化第10号」(土佐地域文化研究会編)などによると、このころ、酒造技師の服部久吉氏や竹村社長の曽祖父源十郎氏らが活躍し、今につながる土佐酒の礎を築いた。

 特に酒どころとして台頭した広島に注目した。灘などは酵母菌の発酵に必要なミネラル豊富な硬水で醸していた一方、広島では酒造りが難しいとされていた軟水で美酒を醸すことに成功していたからだ。

 高知も軟水が多かったため、源十郎氏は広島から杜氏(とうじ)を招いて技術を学ぶと、司牡丹酒造は品評会で高成績を収めるようになった。広島の杜氏の系譜は司牡丹酒造だけでなく、今も高知県内の複数の酒造会社にうかがえる。

 さらに平成に入ると、高知県工業技術センターによる酵母の開発や各蔵間での情報共有のほか、東京の有力酒販店との関係を深める中で、酒質は向上していった。

ゆかりの建物なくなっても

 牧野博士の生家の酒造業は経営が厳しくなり、別の関係者の手に渡った後、明治の中ごろに源十郎氏が譲り受けた。その後も、牧野家が酒造りをしていた白壁の蔵と、博士が勉強部屋に使っていたと伝わる木造の建物は残っていた。

 ただ老朽化が進んでいたこともあって、白壁の蔵は、竹村社長が子どものころ台風で倒壊。木造の建物のほうは内部にタンクを置き、酒かすなどを保管するなど活用していたが、2004年に台風の影響で壊れたため撤去した。

 ゆかりの建物はすべてなくなったが、地元では惜しむ声が聞かれる。司牡丹酒造はかつて白壁の蔵があった場所に、同社の倉庫の片隅で10年以上眠っていた蒸留器を置き、牧野博士が発見し、妻寿衛さんの名前から取った「スエコザサ」を原料にしたジンを製造している。

 昔は酒造りに難渋したが、今や高知県は酒どころの一角に成長。22年度は新酒のできばえを競う全国新酒鑑評会で最高位の「金賞」受賞率がトップになった。県酒造組合の理事長でもある竹村社長は「今は絶好のチャンス。ドラマを機会に土佐酒をもっと飲んでもらいたい」と意気込んでいる。【植田憲尚】

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