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日本への感謝、色あせず=シベリア孤児救済100年―「ウクライナの子供助ける番」・ポーランド


 【ワルシャワ時事】1920年から22年にかけて、ロシア革命後の混乱が続く極東シベリアに取り残されたポーランド人孤児計765人が日本に救済された。その100周年を記念するイベントが今月上旬、在ポーランド日本大使館で開催された。日本で療養後、ポーランドに送り届けられた孤児の子孫らが出席。「日本人が手を差し伸べてくれたから、私たちが生まれてここにいる」。今も色あせない感謝を口にした。  16歳の時、祖父から幼少期の話を聞いた―。大学教員のスワボミル・サマルダキエビチさん(53)は「きのうのことのように覚えている」と語る。  祖父が初めて口にしたシベリアでの貧しい暮らし。生きるために物乞いや盗みをしたこと。母と妹と別れ、弟と2人で船で敦賀港(福井県)に着き、福祉団体「福田会」(東京都)の施設で約3カ月間過ごしたこと。  「また今度、続きを話そう」。そう約束して別れた1週間後、祖父は他界した。「青天のへきれきだった」とサマルダキエビチさん。「今にして思えば、死期を悟り、自分がたどった道のりを次の世代に伝えたかったのかもしれない」。  祖父が残した日本に関係する遺品は「渥美鷹夫 24」と署名されたはがき1枚だけだった。渥美氏のその後の消息は不明だが、「とても親切にしてくれた人だからこそ、祖父はずっとはがきを大切にしていたのだろう」と語る。  2001年に仕事で名古屋を訪れた際、博物館明治村(愛知県犬山市)に足を運んだ。偶然、日本赤十字社に保護されたシベリア孤児の集合写真が目に飛び込んできた。「どの子が祖父かすぐに分かった」。隣には祖父の弟も写っており、「激しい感動がわき上がってきた」。  会社員ルーカス・グラボウスキさん(25)は4年前、日本でのインターンシップが決まった。家族に報告すると、曽祖父が8歳の頃、日本にいたことがあると教えられた。  第2次大戦中に亡くなり、顔も見たことがない曽祖父。だが、共に日本に救済されたいとこが残した手記には、シベリアからたどり着いた敦賀で服や菓子をもらい、遠足で海岸に連れて行ってもらったと記されていた。グラボウスキさんが敦賀を訪れると、町を挙げて歓迎された。「曽祖父らが経験した日本人の温かさが心に染みた」と振り返る。  ロシアによる侵攻では、多くのウクライナの子供が親を失ったり、肉親と離れ離れになったりした。「孤児たちが100年前に日本から受けた恩を未来に伝え、同じ境遇にいるウクライナの子供たちを助ける」。グラボウスキさんはそれが孤児の子孫の責任だと感じている。 【時事通信社】 〔写真説明〕シベリア孤児子孫のグラボウスキさん一家。右から2人目がルーカス・グラボウスキさん=7日、ワルシャワ 〔写真説明〕スワボミル・サマルダキエビチさんの祖父。シベリア孤児として日本に救済された(サマルダキエビチさん提供・時事) 〔写真説明〕スワボミル・サマルダキエビチさんの祖父が残したはがき(サマルダキエビチさん提供・時事)
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