■彼女こそ自分の理解者だと思っていた
マサキさん(36歳)は、西日本のとある町の出身。東京の大学を卒業して就職してから、「ちっともいいことがなかった」人生を送ってきた。3年目に人間関係がうまくいかず退社。かなりのブラック企業だったようだ。
「始発で会社に行って終電まで働かされることもありました。残業代なんてもちろんつきません。他の手当もほとんどない。上司には怒鳴られまくって、我慢の限界でした。案の定、その後、会社はつぶれましたけど」
それ以来、彼は契約社員として、あちこち転々としてきた。実家に戻ろうかと思ったこともあるが、両親はマサキさんの兄一家と同居しており、彼が戻っても歓迎されるとは限らない。そもそも会社を辞めたことさえ親には言えなかったという。
「前職が営業だったので、やはり営業職が多かったです。技術をもっているわけでもないし、特別なスキルがあるわけでもないので苦労しました。それでも必死にIT関係の勉強をして、そちら方面の営業職として、自分ひとり食べられるだけの収入は得られるようになりました」
恋愛や結婚に目を向ける余裕はなかなかもてなかった。それでも35歳を目前にしたころ、7歳年下の女性と出会った。そのころ勤めていた会社の取引先の女性だった。
「何度かその会社に行くうちに顔なじみになって。たまたま僕が約束していた相手が外回りから帰社するのが遅れ、彼女が間をもたせるために話し相手になってくれたことがあったんです。そこでお互いに惹かれるものがあったんでしょうね、彼女のほうから『今度、飲みに行きましょう』と誘ってきたんです」
マサキさんがときどき行く、気楽で、だが食べ物のおいしい居酒屋に連れていくと、彼女はひどく感動してくれた。いい子だなあと一気に感情があふれていった。
「何度目かのデートで、正社員じゃなくて契約社員だと伝えました。それで彼女が去っていくならしかたないと覚悟を決めて。でも彼女は動じなかった。『あなたはいい仕事をしていると思う。正社員になりたいなら、どこかにチャレンジしたらどうかな』とも言ってくれた」
彼女は自分をわかってくれている。彼女と結婚したら、幸せな人生が待っているのではないかと彼は考えた。
■結婚をOKしたのに
3ヶ月ほどたったころ、まだ早いかもと前置きした上で彼はプロポーズした。いますぐでなくても結婚を前提にしたいという気持ちの表れだった。
「彼女はOKしてくれたんです。結婚に向けてつきあっていこうねとニッコリ笑って。あの笑顔がきれいだったんですよ……」
彼の言葉が詰まった。次のデートのとき、待ち合わせ場所近くの宝飾店でウインドウをのぞき込んでいる彼女を、彼は見てしまう。
「そうか、婚約指輪を贈ったほうがいいのか、と気づきました。彼女が僕の部屋で眠っているとき指のサイズを測り、必死で貯めた100万円で指輪を買ったんです」
彼女は喜んでくれた。だが翌日から彼女と連絡がとれなくなる。会社に電話をしてみたら、3日前に辞めているという。連絡先は教えてもらえなかった。
「友人にもこれから紹介しようと思っていたから、僕らがつきあっていることを知っている人はいない。彼女の友だちにも会ったことがないし、彼女の住所も知らない。考えたら3ヶ月のつきあいだから、彼女のことを何も知らなかった。実家に住んでいると言っていたけど実家の場所も教えてくれない。ヘンだなと思ったけど怖くて追求できなかった」
彼女にも言いたくないことはあるだろうと思ってしまったのだ。目の前にいる彼女に、心を奪われていたから。
彼女は彼の家に泊まったこともあるが、ふたりは結局、男女の仲にはなっていない。彼女が「きちんと結婚を決めてからね」と言ったからだ。彼はそこにも好感をもっていたが、手ひどく裏切られたことになる。
「彼女の会社の上司などにあらいざらい話して行方を捜すことはできるかもしれません。でも、それをして何になるのか。もっとみじめになるだけですよね」
彼はすでにその会社との仕事を終えて、出向くこともなくなっている。騒ぎ立てるのは、男としてかっこ悪いと思ったという。
「でもあの100万円は痛かった。この新型コロナウイルスの影響で、僕、3月の契約満了をもって更新してもらえなかったんです。他の契約社員もみなそうだったみたいですけど。あの100万円があれば、と今、心から思っています」
またゼロからのスタートです、と彼は力なく言った。