『with news』が配信していた、新著『一発屋芸人の不本意な日常』(朝日新聞出版)を発表し、文筆家の道を切り開いているというお笑いコンビ『髭男爵』の山田ルイ53世と、女優やアイドルを経てライターになったという大木亜希子との「文章術」をテーマとする対談が、なかなかに興味深かったので、今日はそれについて論じてみることにする。とりあえずは、冒頭のやりとりに目を通してもらいたい。
山田ルイ53世「文章を書くのって、ものすごく面倒くさいじゃないですか。人間の心理からすると、本来やりたくないことだと思うんです。あんな長時間机に向かって、ずっとなんじゃかんじゃ考えながら、その割に、そんなにギャラもよくないでしょ(笑)」
大木「どうでしょう(笑)。ご案件によってギャランティは違いますから……。ただ、『ライターやってます』というと、すぐお金の話になる人がいますけど、そういう人とだけは付き合いたくないですね」
山田ルイ53世「コストパフォーマンスでいえば、決していい仕事じゃない。それが出来るのは、『私怨』とまでは言わないですけど、僕の場合はやっぱり恨みの部分はある。そういう原動力、ガソリンが大事だなと思いますよね」
大木「山田さんがイベントの中で『私怨』とおっしゃっていたと思うんですよね。自分は崇高な気持ちでやっているんではなくて……っていうのがすごくわかって」
対談全体としては、山田ルイ53世の「淀みない主張」に、大木が「なんとなく腑に落ちない部分もあるけど、一応乗っかってはいる」的なニュアンスだったが、私もこの「私怨論」に関しては、大木と(おそらく)同様に「言いたいことはよくわかるけど、100%共感はできない…」といった“煮え切らなさ”を、モヤッと感じている。
まず、「文筆業はコストパフォーマンスでいえば、決していい仕事じゃない」ってくだりは完全に正しい(笑)。原稿一本ン千円なんてギャラ設定はイマドキ珍しくもないし、何カ月間もそれなりに時間を費やして書き上げた一冊の書籍も、村上春樹でもないかぎり、またなにかの間違い(?)で大化けでもしないかぎり、入ってくる印税はせいぜい50万円程度だったりする。
では、なぜ、そんな「割に合わない文筆」を(一部の)ヒトは仕事にしようとするのか? 「私怨」を衝動として文章を書き始める──すなわち、それを“きっかけ”とするケースはあるのかもしれない。だが、ここは断言しておく。「私怨」だけでは、文筆の仕事を「始めること」はできても、「続けること」は絶対にできない。「怒り」とは喜怒哀楽のなかで、もっとも持続しづらい“瞬発力の感情”であるからだ。あと、延々と恨み辛みを書き綴る文筆家の原稿が永遠と人の心を打つはずもない。
ここで問い方を少々変えてみよう。なぜ、私は、そんな「割に合わない文筆」を仕事とし続けているのか? 禅問答のような回答になってしまうのだが、「これが仕事だから」「もはや、この年齢になってしまったら、これでしかお金を稼ぐことができないから」である。
伊坂幸太郎が自身の小説『サブマリン』(講談社)で、登場人物を介し、とてもいいことを言っていた。
「誤解を受けるかもしれないけど、(家庭裁判所調査官である)僕が少年事件を担当して、少年のことを調べるのは、それが仕事だからで。毎日の業務、仕事なんだ。ただ、理容師が仕事で髪を切る時も、どうでもいいや、なんて思わないだろうし、パン職人も、適当に作っているわけがない。みんな仕事だけれど、できれば(〜)」
そう。「できれば」──あわよくば、自分の仕事、文章が誰かの励み・癒し・勉強(反面教師も含む)・気分転換……どんなかたちでもかまわないので、お役に立っていただけたら──こんなちっぽけな承認欲求こそが、「続けること」の、意外に大きなモチベーションとなっている。だから、私は「リズム感だけで最後まで流し読みできる文章」を常に心がけている。そして、その原稿は、内容が読む人たちの頭に残らなければ残らないほど、心地良いと信じている。